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「民族統一の日」のパレード(2008年11月)

「民族統一の日」のパレード(2008年11月4日)

 11月4日は“民族統一の日”というロシアの祝日です。

 サハリンでは祝日が近くなると、州知事や各地の市長が、祝日の意義を称えると共に、住民の幸福や地域の発展を願う旨の祝賀メッセージを新聞やウェブサイトなどで発表しています。そうしたものに目を通してみると、この“民族統一の日”は「2005年から祝日となっている歴史が浅いものでありながらも、ロシア国民に敬意を払われている大切な日である」という主旨の紹介がされています。

 11月4日、ユジノサハリンスクの都心部の“豊原時代”には“神社通”と呼ばれていたコムニスチーチェスキー・プロスペクトに交通規制が行われ、“民族統一の日”のパレードが催されました。何時もは車の交通量が多い通から車の姿が無くなり、人々が歩く様は少々不思議に見えました。

 コムニスチーチェスキー・プロスペクトは両脇に広い歩道を備えた大きな通で、各種見本市会場に用いられ、建物脇に戦車や戦闘機の展示がある“将校会館”、1937年の完成当時の姿を伝える博物館、大きな会議室を備えていて州行政府の部署やロシア国内外の企業が入居するビジネスビル“サヒンツェントル”、サハリンに足跡を残した作家チェーホフの名を冠した劇場、その他官公署や教育機関、映画館などが並ぶ賑やかな辺りです。

イコンを先頭に進むパレード(2008年11月4日)

 パレードは“将校会館”から“チェーホフ劇場”の区間で催されました。曇天で気温は5℃程度と寒い感じでした。大きなイコン(ロシア正教の聖画)を先頭にパレードが始まりました。当初は200人程度と見受けられた参加者も少しずつ増え、最終的には500人程度に膨らんでいました。

 “民族統一の日”について人に尋ねると、これは「1612年のモスクワ解放を記念したもの」という説明を受けます。

 ロシアでは16世紀末から17世紀初頭にかけて後世に“大動乱”と呼ばれる混乱が続きました。当時の皇帝の権威が低下していた間隙に外国勢力の侵入を受けるなど、ロシアは苦しい状況にありました。1612年、モスクワを占領していたポーランド王の軍勢に対抗したロシアの国民軍は、激闘の末に彼らを破りモスクワを解放しました。この出来事が「ロシアの人々が、自らの手でロシアを取り戻した」ということで、後世記憶されることとなり、今日の“民族統一の日”の起源ということになりました。

 ロシアでは“大動乱”を経てロマノフ朝による帝政に入って行きますが、その帝政期のロシアで1612年の出来事は「“カザンの生神女(しょうしんじょ)”の日」という、ロシア正教会の祝日として祝われていました。ポーランド王の軍勢に対抗したロシアの国民軍を率いたドミトリー・ポジャルスキーは、カザンの教会から贈られた“生神女(しょうしんじょ)”のイコンを、国民軍の守り神として大切にしたと伝えられています。その故事に因み、1649年に「“カザンの生神女(しょうしんじょ)”の日」が定められたということです。

パレードの終点となったチェーホフ劇場の辺り(2008年11月4日)

 “民族統一の日”ということになった11月4日は、このロシア正教会の祝日を意識して選ばれたようです。またこういう言われを踏まえて、ユジノサハリンスク市内のパレードも“カザンの生神女(しょうしんじょ)”という大きなイコンを先頭にしているのでしょう。

 意外に熱気を帯びたパレードではありましたが、観光客が集まるような催しという訳でもありませんでした。愛国心の昂揚を図るような祝日ですから、“外国排撃”というような言動をする人達も集まるという噂がありますが、特段にそういう人達は見受けられませんでした。ただ様子を眺めて写真などを撮ると「何の人だろう?」という参加者の目線を感じるような按配です。

 * 生神女(しょうしんじょ):日本のロシア正教の教会で用いる用語。聖母のこと。

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