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残留邦人サハリンへ帰国(2015年6月23日)

日ロ戦争終結後、ポーツマス条約により北緯50度線から南半分のサハリンが日本の領土となると、多くの日本人がその地(以後「樺太」という日本名で呼ばれる)に渡り、そこで生活を始めるわけですが、20年後の1945年、日本が第二次世界大戦に敗れ、樺太を失うと、その地に渡った日本人は樺太の地を追われ、日本に引き揚げることを余儀なくされます。

工藤市長と残留邦人の皆さんの写真しかし、すべての日本人が樺太から戻ってこられたわけではなく、やむをえず樺太に残らなければならなかった日本人は少なくありませんでした。彼らはやがて、すでに日本の領土ではない樺太で、家庭を作り、子供を残し、生きていくわけですが、その子孫の方々は現在でもサハリンで暮らしています。

そのような方々を「サハリン残留邦人」と呼ぶのですが、祖国(日本)に対して、または、離れ離れになってしまった家族に対して、「一日でも早く帰りたい、一人でも多くの家族に会いたい」というような強い思いを持っており、その思いに応えるべく、1990年、「樺太(サハリン)同胞一時帰国促進の会」によって初めての一時帰国が実現されました。

以後も、25年間に亘り、一時帰国や永住帰国が実現されてきており、現在は、「NPO法人 日本サハリン協会」が後任を担い、この活動を支えています。

今回の一時帰国は、11日間の日程で北海道を訪れるという内容で企画され、6月13日(土)にユジノサハリンスク市から飛行機で新千歳入りした彼らは、道内各地の祖先の縁の地を訪れたり、離れていた家族や親戚などと再会したりしながら、稚内に向けて北上してきました。22日(月)に稚内入りした彼らは、その夜、関係者によって開かれた歓送迎会によって、望郷の旅の最後の夜を締めくくったそうです。

別れを惜しむ方々の写真一夜明けた23日(火)、朝7時30分過ぎに国際フェリーターミナルへ行くと、すでに多くの残留邦人の方々にあふれており、大変にぎやかな雰囲気でした。ほどなくして工藤市長が見えると、彼らに対して、今後も北海道を訪れていただきたいことや、サハリンへ戻っても健康に暮らしていただきたいことなどを伝えていました。やがて、8時の出国審査の時間になると、見送りに訪れた関係者の皆さんとお別れの言葉を交わしたり、抱き合ったりしたあと、最後は工藤市長や関係者などに見送られながらゲートをくぐっていきました。

フェリー出航の間際、サハリンへ帰る残留邦人の方、それを見送る家族の方々が、互いに大声でロシア語の歌を歌っていました。歌の内容はわかりませんでしたが、別れを惜しんでいるということがひしひしと伝わってきました。そんな感動的な雰囲気のなか、アインス宗谷はコルサコフ港に向けて今日も出航していきました。

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