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第52次日本南極地域観測隊 市川正和隊員の南極越冬記(9)

平成24年1月の報告

第52次日本南極地域観測隊ロゴ

 1. 新 年

 2. 遅れる作業

 3. 「しらせ」接岸断念

 4. 1年ぶりの「しらせ」

 5. 輸送開始

新 年

 12月31日深夜、みんな食堂に集まりカウントダウン!めでたく全員無事に南極で2度目の正月を迎えました。

 

 31日は午前中仕事をしましたが、午後からは大掃除を行い、夕方のミーティングを終えた後は、調理の工藤さんが作ってくれた年越し料理&年越しそばを食べながら楽しい時間を過ごしました。

有志が備え付けた特性「除夜の鐘」
除夜の鐘

 3時を過ぎたころから、有志が備え付けた特性「除夜の鐘」を全員が打ち、23時59分、カウントダウンが始まり、全員が元気な笑顔で新年を迎えました。

 ここまで、観測史上最低の月日照時間や、観測史上最高の積雪を記録するなど予想以上に厳しい環境を経験しましたし、設備のトラブルや作業中の事故など、結果的には大きな問題にはならなかっただけで、相当危険な状態だったこともありました。

しかし、そんな厳しい状況も皆で知恵を出し合い、協力してクリアし、全員が元気に新年を迎えることが出来ました。

 元旦は、隊長から「越冬生活も残り1カ月。最後まで安全に事故なく怪我なく過ごし、全員で無事に帰ろう」との言葉の後、またまたシェフ特製のお節料理と雑煮をいただきながら新年の乾杯!

お節料理&塩釜焼

お節料理&塩釜焼

  
すき焼きもでました

 すき焼きまで出ました。

 昭和基地では、何故か鍋奉行。

 稚内では自分で料理を作った事なんか無いんですが…

 53次隊も昭和基地入りし、毎日忙しく夏作業を続けてきましたので、この日はおもいっきりのんびりと楽しい時間を過ごしました。

遅れる作業

 私が昭和入りしたのと同じ12月23日に53次隊がやってきて2週間が過ぎても、「しらせ」が近づきません。

 今年は昭和基地周辺の広い範囲で積雪が多く、海氷上も2メートル以上の積雪となっているようで、砕氷能力を誇る「しらせ」もなかなか進むことが出来ません。

 乱氷帯と呼ばれる流氷が集まってできたような海氷は、通常でも進みにくいのですが、今年は大雪も重なり、いつも以上に進むことができなかったようです。

 数百メートル進んでも、その乱氷帯ごと風に流され、戻されてしまうようです。

 「しらせ」の接岸が遅れるということは、53次夏隊の夏作業、我々の引き継ぎを兼ねた観測機器等の交換作業など、全ての作業が遅れることになります。

 物資が届きませんからね。

 特に夏隊は昭和基地入りしてから1月半程度の間に、建物やアンテナなどの建設を行わなければならないのですが、物資が届かなければ何も出来ない状況になります。

 物資が届いて忙しくなる前に引き継ぎだけはしっかりしておくようにとの指示があり、各部門、早めに引き継ぎを開始しました。しかし、私が引き継ぐ相手はその時はまだ「しらせ」に残り、「しらせ」との調整業務を行っていました。

 庶務は輸送担当を兼ねることがあり、私もそうでしたが、53次の庶務も同様でした。私は昭和基地側で荷受け担当でしたが、彼は「しらせ」からの荷出し業務を担当していたので、昭和基地入りは先送りとなっていました。

 「しらせ」接岸までは船に残ると聞いていたので、このまま、「しらせ」接岸が遅れ続けると引き継ぎが大変です。「しらせ」が接岸すると私が「しらせ」側で荷受けをする時間が増えるため行き違いになってしまうんです。

 このままだと辛くなるなと感じ始めた1月上旬、ようやく、53次越冬庶務の鈴木隊員が昭和基地入りしました。輸送期間中はお互い時間は取れませんが、協力してやっていこうと、次の日から引き継ぎが始まりました。

53次庶務の鈴木隊員

53次庶務の鈴木隊員(30歳)

※極地研究所南極観測隊員室でテレビ出演もした事がある。

 私が昭和基地を離れるまで残り3週間。最後の業務が始まりました。

「しらせ」接岸断念

 1月21日12時(昭和時間)、厚い氷と積雪に苦戦していた「しらせ」が昭和沖接岸を断念。昭和基地から直線距離で21キロ程の位置ですから、少し高いところに登ると見えるんですが…。

 35次隊以来18年ぶりの接岸断念。

 なんともショックな一報でした。

厚い氷と積雪に苦戦していた「しらせ」

近くて遠い「しらせ」

 昨年(2011年)の11月に晴海ふ頭を出航した「しらせ」は、私たちが乗艦したときと、ほぼ同じペースで進んでいましたが、12月中旬、乱氷帯につかまりました。

 夏作業の準備に必要な物資と人員だけは早めに送ろうと、23日に第1便は飛んだものの、それ以降、「しらせ」の足は止まりました。

 毎日、無線で定時交信を行うのですが、1月に入っても、変化の少ない現在位置情報に「大丈夫だろうか?」と不安を覚え始めました。

 世界屈指の砕氷能力を誇る「しらせ」ですから最後は何とか着いてくれるだろうと楽観視してはいたのですが…

 「しらせ」が接岸しないということはどういうことなんだろう?

 自分なりに色々と考えました。

 私たちは、どちらにしてもヘリコプターで「しらせ」に戻りますので、帰れないということはないんですが、帰るとしても荷物制限があったり、天候によっては突然の帰艦ということも考えられます。

 持ち帰る物資の準備は始めているものの、「しらせ」が接岸してからでも間にあうと思っていたものや、私物等はまだ準備されていません。

 この後、何を優先して準備すべきなのか?何を優先して持ち帰るべきか?

 全体調整が業務である庶務として、また、輸送担当者として、何から手を付けどう考えたらよいのか戸惑いを覚えました。

 過去の例が少なすぎて教科書が無いんです。

 

 50年以上に亘る南極観測ですから、多少のトラブルは過去の例が参考となり対処することが出来ます。また、多少応用問題になることはあっても、過去例の無い事例なんてものはそれほどありませんでした。

 しかし、今回はまったくの白紙から考えなくてはなりません。

 一番の問題が物資輸送です。観測隊の第1優先事項は越冬成立です。

そのために必要な食料や燃料は必ず運び入れなければなりませんが、その量が一番多いんです。

 燃料のほとんどは「しらせ」と基地のタンクをホースで結び、直接送油する予定でしたが、それもできません。

 つまり燃料を入れる容器作りから始まり、それを空と氷上の両方から運び入れます。

 ヘリコプターは飛んで良いとされる時間が決められています。また、直線距離で21キロといっても、海氷上の輸送可能ルートは30キロ程度になり、氷上輸送も1日に1往復が精一杯です。このような限られた輸送方法で53次越冬に必要不可欠な物資は必ず運び入れる必要があります。また、我々の持ち帰り物資についても、最低限は持ち帰らなければなりません。

 「最悪の状況を想定して早めに行動すること」隊長に言われたこの言葉どおりに行動していたつもりとはいえ、現実となってしまった最悪の状況に「大丈夫か?間に合うだろうか?」不安と焦りでいっぱいの中、21日午後、「しらせ」との輸送調整会議に臨みました。 

1年ぶりの「しらせ」

1年ぶりの「しらせ」

 1年ぶりに戻った「しらせ」では、わざわざ会いに来てくれる人がいる程、大歓迎してくれました。

 「接岸できなくて申し訳ない」みんな必ず口にします。「南極ですから」と私はそうとしか言えませんでした。

 会議では予想通り厳しい話しを聞かされ、再検討しなければならない状況でした。しかし、会議終了後、往路でお世話になったたくさんの方々が私に「大丈夫。もらった持ち帰りリストなら、最低限は必ず運べる」と力強い声がけをしてくれました。

 日本出国後、寝起きを共にし、一緒に食事をした最高の仲間がここにもいました。

 「持ち帰りはなんとかなる。後は越冬成立。厳しい状況でも、この人たちと一緒なら53次越冬成立は成し遂げられる。」そう思った瞬間でした。

輸送開始

 本格空輸が始まり、同時に氷上輸送も開始されました。

 空輸は日中、氷上は気温の下がる夜に実施されます。

 完全に24時間体制となりました。

 天候に左右される作業ですので、荒天時は焦らずに休み、晴れたら全力で作業にあたります。

 1月下旬、天候が不安定で思うように作業できない日が増え始めました。

 間もなく冬を迎える南極昭和基地。

その前に最後の大仕事が始まりました。

氷場輸送 初日

氷上輸送初日

※深夜に「しらせ」に到着しましたが、突然の霧で視界不良となり、朝戻ってきました。

最後の大仕事である輸送作業の風景
輸送作業風景 「最後の大仕事です。」

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