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第52次日本南極地域観測隊 市川正和隊員の南極越冬記(3)

平成23年3月~4月の報告


第52次日本南極地域観測隊ロゴ

 1. 3月(その1:オーロラ)

 2. 3月(その2:温水の配管凍結救出ミッション)

 3. 3月(その3:南極大陸に初上陸)

 4. 4月(その1:南極安全講習及びレスキュー訓練)

 5. 4月(その2:突然の指名 S16オペレーションメンバーに)

 6. 4月(その3:順調に進む作業)

 7. 4月(その4:外出禁止)

 8. 4月(その5:帰還予定のはずが…)

 9. 4月(その6:昭和基地に帰還)

3月(その1:オーロラ)

 3月に入るとオーロラ(写真:右)が見え始めました。

オーロラオーロラ

「激しく見えるのはまだ先、見ることができなかった隊も過去にあった」と聞いていたが、私たちはラッキーだと思います。

この時期にこんなに見えるとは…と越冬経験者も話していました。

 寒いと言ってもマイナス15度前後の3月。

この程度の気温なら貸与されている防寒着を着ていれば、夜通しオーロラを見ることもできます。初めてみるオーロラを皆で遅くまで見ていました。

 時には「すげぇ」と歓声を上げ、時には全員が見入って静まりながら神秘的な夜空を眺めていました。

 オーロラを見て感動してばかりはいられません。

南極教室の素材として、また唯一持ち帰ることが出来るお土産用に写真を撮らなければ…。経験者やカメラ好きの隊員に撮影のポイントを習いながらオーロラが出た日は毎晩外に出て撮影会を行いました。

「こんなもんだろう」と思えばそれまでだが、人の写真を見せてもらうと、どうも自分の物と違う。カメラの性能の違いも確かにあるが、理由はそれだけではなく、アングルのセンスやカメラの設定の違いなど、今まで写真撮影などしたことがない自分には難しい問題でした。帰るまでには1枚くらい納得のいくものが撮れると良いのだが…。

 とにかく今はなるべく多くの写真を撮り続けるしかないと、カメラを持ち続け、オーロラ、星空、生活の様子などシャッターを切り続けました。(オーロラはそのほとんどが白くぼんやりとした雲のようにしか見えませんが、時折、激しく輝き、運が良ければ赤やピンクなど違う色も見ることができます。また、昭和基地ではオーロラ観測のため灯火管制が行われるため、夜は外灯も消され、明りがついた状態ではカーテンを開けることが出来ません。)

オーロラオーロラ
市川隊員が撮影したオーロラ

3月(その2:温水の配管凍結救出ミッション)

 3月のある日、これまでも暖かいとは思っていなかったが、「南極だからそんなもんだろう」と誰もが思っていました。10度前後しかない各個室の温度のことです。暖房用の熱源として送られている温水配管が少しずつ凍り始めていたのです。

 スポーツ大会が予定されていた日、温度が全く上がらない状態となり、設備担当隊員が配管を調査することとなったため、一緒に作業にあたりました。配管のつなぎ目を緩めてみるがお湯が出ません。普通であれば少しでもゆるむと水が漏れるはずのつなぎ目から全く水が出ないのです。

 末端から作業を始め、次々に緩めてみましたが水が出ません。同じ配管から分岐されている別の建屋は暖かいので全滅ではないはず。とにかく何処までだめなのか確かめなくてはなりません。次々につなぎ目を確認していくと、分岐点のすぐそばでやっとお湯が出ました。

 居住棟への配管のほぼ全域が凍りついていました。すぐに全ての配管を取り外す作業が全員作業で行われました。一旦すべての配管を中に入れ、配管内の氷を融かします。時折、水を浴びながらの作業ですが、今はそれもやむを得ないです。

 翌日、すべての配管から氷がなくなったことを確認し取り付けを行いました。すべてが元通りとなり、お湯が回り始めたが油断は出来ません。配管内の空気が抜けなければ、お湯の回りが遅れ、流れが悪くなった所からまた凍ってしまうのです。

 「頼む」と祈りながら、各所でエア抜き、ポンプ確認、温度確認の作業を続けました。配管の取り外しから3日後、温度が上昇し、安定した時、全員が歓声を上げました。温水配管救出ミッションは大成功し幕を閉じました。

3月(その3:南極大陸に初上陸!)

  翌日(3月24日)、ルート工作が予定されていましたが、これまでその作業に同行していた設備担当の鯉田さんが「配管が心配」との事で、急遽、私がその作業にあたることになりました。

 ルート工作とは、過去の隊から引き継がれている大陸までのルートの整備作業のことで、GPSで座標を確認しながら目印の旗を立てて行きます。

 昭和基地が東オングル島という島にあるため、大陸や他の島までは海氷上を移動しなくてはいけません。一面真っ白で何処から海なのかわからないが良く見るとタイドクラックと呼ばれる氷の裂け目があり、そこは海の上なのです。

 400~500メートル毎に旗が立っているが、1年でボロボロになり、時には無くなってしまうため、毎年、この時期に行われる作業でした。また、その旗のポイント毎に雪の深さと氷の厚さを計測し、雪上車がどこまで行けるかの参考資料とします。3メートル以上あるはずの氷がポイントによっては数十センチしかなく海の上に居ることを実感しました。

 この日に大陸の入り口である「とっつき岬」まで行ける予定でしたが、移動に使っていたスノーモービルの故障により引き返すこととなりました。スノーモービルを回収するための雪上車を待っている間、タイドクラックからアザラシが顔を出していました。

 翌日、別のスノーモービルでルート工作に向かいました。作業は順調に進み、予定通り昼には「とっつき岬」直前までたどり着きました。大陸は目の前です。

 上陸前に氷山の近くでシェフの作ってくれた弁当を食べました。保温容器に入っている暖かい弁当も、急いで食べなければ冷凍食品になってしまいます。

 はせちゃん(シェフ)ありがとうと感謝をしながら一気に食べました。

 大陸の近くは最も危険で注意しなければなりません。

 タイドクラックが多い他、プレッシャーリッジと呼ばれる海氷が押し合い盛り上がり、不安定な状態の箇所が複数あるからです。

 プレッシャーリッジは迂回する必要があり、タイドクラックはその周辺の氷厚を慎重に調査し、安全に渡れる場所を探す必要があります。このため陸地周辺はルートが複雑化し遠回りになってしまいます。

 第50次隊にも参加した札幌で山岳ガイドをしている樋口さん、第51次では夏隊だった同じく札幌から来ている環境保全担当の柏木隊員(愛称:カッシー)と3人での作業でしたが、2人とも登山経験が豊富でフィールドには慣れており心強いです。逆に足を引っ張らないようにと慎重に作業にあたりました。

3月24日午後1時15分、南極大陸に初上陸しました。

南極大陸に初上陸した市川隊員
南極大陸に初上陸した市川隊員②

南極大陸に初上陸した市川隊員


4月(その1:南極安全講習及びレスキュー訓練)

 いつも危険と隣り合わせの南極で身につけておかなければならないことは数多くあります。3月から始まった南極安全講習及びレスキュー訓練により緊急時の対応を学びました。

 南極安全講習は毎週水曜日に開催され、南極の気象状況

や野外で使用する物品についての講習を行う他、医療分野の緊急時応急処置法などについても学びます。レスキュー訓練は使用する道具やロープワークの室内講義から始まり、実際に野外を想定したレスキュー方法についての訓練を受けます。非常階段を使用した懸垂下降など、間違うと自分が落下し、怪我で済まない状態になる危険な訓練も行われました。

レスキュー訓練(懸垂下降)
レスキュー訓練(懸垂下降)

「絶対に全員で帰国する」1番の目標であり、最大のミッションです。そのためには、まず第1に事故を起こさない、事故に合わないことです。しかし、未知の世界である南極は危険が何処にでも潜んでいます。

 緊急時に全員が対応できなければならないことは全員が理解しています。座学は夜でも開催できますが、外での実習となると日中しか行えません。業務に追われ毎日忙しく過ごす隊員たちだが、これらの講習の大切さはみんな分かっています。知識も技術も自分のものにしようと全員で真剣に取り組んでいました。

レスキュー訓練(ロープワーク実技)
レスキュー訓練(ロープワーク実技)

4月(その2:突然の指名S16オペレーションメンバーに)

 4月にはS16オペレーションが予定されていました。

 S16とは日本隊が内陸旅行の拠点としているエリアです。

 昭和基地から直線距離で20数キロの地点ですが、ルート工作で整備された安全ルートを移動すると33キロ程になります。このS16には内陸旅行用の雪上車や橇の他に、荒天によりしらせヘリで回収できなかった第52次夏ドーム隊の廃棄物や装備品が放置されていました。

 これらの回収及び雪上車等の掘り出しやこのエリア付近に設置されている気象観測器のメンテナンスのため、このオペレーションは企画されています。

 私は基地内での事務仕事が主たる業務であるため当然、このメンバーには入っていなかったが、旅行準備中の出発前日に予定メンバー8名の内2名が急遽参加できなくなってしまった。

 旅行計画の延期も含め緊急会議が開かれました。

 出発日を1日送らせ、代打として私も参加することになりました。

 旅行計画は4泊5日です。留守にする間の業務を引き継ぎ、私がS16で行う業務の引き継ぎを受け、荷物を整理し、なんとか準備を完了させました。

 突然の指名に戸惑いながらも、初めての内陸旅行に興奮していたのは間違いありません。

 4月20日、まだ薄暗い中、皆の見送りを受け出発しました。

S16オペレーション雪上車(市川隊員が運転)

S16オペレーション雪上車

(市川隊員が運転)

3月に参加したルート工作により完成したルート上を順調に進んで行きました。そのルート工作の時にあったタイドクラックが広がっていました。安全第一とし道板(雪上車が乗っても折れることの無い板)を渡しタイドクラックを抜けました。

雪上車の内部

S16オペレーション雪上車の内部

「とっつき岬」まで順調に進み昼食をとりました。

 天候も良くこの後も順調かと思われましたが、大陸を進むにつれて視界が悪化し始めました。第52次隊がルート整備を行った地点を少し過ぎた辺りで次の旗が見えなくなってしまいました。

 目標が見えません。GPSを便りに進むが旗は無く、新たな旗を立てました。

S16-S17間の標識での写真S17地点でかき氷
S16-S17間の標識にて
S17で「かき氷」

 次からもどうなることか…と心配されましたが、雪で埋まりながらも旗は立っていました。旗から次の旗は見えないが方向さえ間違わなければ次の旗に辿り着くことができました。

 緊張の連続でしたが、途中から視界も回復し、予定より遅れましたが無事S16に到着することができました。

4月(その3:順調に進む作業)

 翌日(4月21日)より役割を分担し、優先順位が高い作業から始めました。

 私の作業は雪上車及び橇の掘り出しです。マイナス20度を下回る中での外での作業は過酷です。油断すると露出している肌が凍傷してしまいます。お互いに注意をしながらペアで作業にあたりました。

S16で雪上車を誘導
S16で雪上車を誘導

 気温は低いが太陽も出て風も無く、作業は順調に進みました。3日目には天候が崩れるとの予想から、早めに作業を終わらせるため2日目は早朝から業務を開始しました。

 「天気が良いうちに」と記念撮影も行い、この日も事故や怪我もなく終わることが出来ました。

S16で記念撮影
S16で記念撮影

4月(その4:外出禁止)

 3日目(4月23日)。

 朝起きると外は吹雪いていました。見えていたはずの橇や雪上車が見えません。作業は危険と判断し停滞日となりました。時間が経つにつれ、さらにひどくなったため、宿舎としているドーム夏宿から出ることも危険となり外出禁止になりました。

 宿舎の隣に停めていた「トイレ橇」に移動するのも命懸けです。

 それも難しくなり、宿舎内に簡易トイレを設置しました。

 ドーム夏宿に扉が2枚あったことに感謝しました。

 ドーム夏宿とはドームふじ基地の建設時に使用されていたものらしく、橇の上に大きな冷凍庫を改造した建屋が乗っています。機密性は高く、一度温まると中々冷えません。暖房も発電設備もないため、電気は隣に移動した雪上車の発電機から取り、電源ドラムで引きまわしていたので1枚目の扉は全閉出来なかったが、それでも着こんでいれば何の問題もないです。

 暖房はジェットヒーターを使用し、暖まったらすぐに消して2枚目の扉を閉めました。仮設トイレは少し冷えるが外よりは暖かいです。扉を閉めるため電源ドラムは2枚目の扉の外に出し、電気は無いが窓があるので日中は問題なく夜は、ヘッドランプで何とかなります。

 食料は予備食も含めたくさんあり水も多めに持ってきているので問題ありません。今回のリーダーであり野外主任の樋口さんが毎回ご飯を作ってくれました。カッシー(柏木隊員)やぐっちゃん(谷口隊員)の元気と話術で常ににぎやかで気象部門のサンダー(杉山隊員)とマツミン(髙野隊員)のノリが良く明るい性格も手伝って、2日間の缶詰め状態も、話題が尽きることなく、楽しく過ごすことが出来ました。

S16宿舎内
S16宿舎

 代打で参加した私としては皆に感謝します。

4月(その5:帰還予定のはずが…)

 出発から6日目の4月25日。

 

 朝起きるとまだ吹雪いていましたが、今日は天候の回復を期待して待っていました。

 

 出発してから毎日、夜8時に昭和基地と無線で定時交信が行われています。

 

 基地に残っている皆も心配しているが不安な話をするようなことはしません。

 いつも楽しい出来事を伝えてくれて、私たちに早く帰って来いとメッセージを送ってくれます。その定時交信で翌日以降の天気予想を聞くが、この日は回復する予想だった。予想通り午後からは天候が回復し作業を行うことが出来ました。

 予定していた作業をすべて終え、明日、帰路につく…はずだった。

 帰還予定の26日、朝から雪上車を立ち上げ帰る準備を始めました。雪上車はマイナス20度を下回る南極では、暖気運転をしっかり行う必要があります。エンジンをかけ、しばらく待ち、その後、回転数を一定に保ったまま前後の動きを繰り返します。時間にして1時間弱かかります。

 

 この日はその暖気運転、慣らし作業中にどんどん視界が悪くなってきました。晴れたら帰るということとし、しばらく待ちましたが天候が回復せず、この日は帰ることを断念し、もう1泊することになりました。

4月(その6:昭和基地に帰還)

 出発してから8日目となる4月27日、朝5時半に起き外を見ると天候は回復していました。すぐに帰る準備を始め、9時10分に出発しました。

雪のオブジェと雪上車SM100
雪のオブジェと雪上車SM100

 33キロの道のりではあるが、途中、雪上車で引いている橇が滑ってしまい雪上車に激突することを避けるため、列車と呼ばれる橇の前後を雪上車で挟んで進む方式をとる必要があり、数回往復しなければならないエリアがあります。このため、早く出発する必要がありました。天候も悪化することなく無事に列車ポイントまでたどり着き、慎重に橇を運びました。橇運搬と橇連結に班分けをして、作業は予定通り進みました。

 大陸の出口「とっつき岬」でS16から乗ってきた雪上車SM100を立ち下げて作業は終了しました。

雪上車SM100
雪上車SM100
 雪上車SM100は重量が重く、今の海氷では危険なため、大陸上に停め置きする必要があります。S16に放置しておくと、今後の野外活動の時に取りに行くには距離があり過ぎるからです。ブリザードが吹いても大丈夫なように風向を考えて停車させ、バッテリーをはずし、隙間にはガムテープを張り目張りを行いました。

 すべての作業が終わり、15時半頃、帰路につきました。

 出発前に昭和基地より無線で「霧が出てきた」と連絡がはいりました。確かに視界が悪い。だが、次の旗は何とか確認できる程度だったので出発しました。途中、先が見えにくく、来たときのキャタピラの跡を頼りにすることもありました。

 17時半、無事に昭和基地に帰ることが出来ました。

 4泊5日のミッションが結果的に私にとって初めての内陸旅行7泊8日の大冒険となりました。

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