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第52次日本南極地域観測隊 市川正和隊員の南極越冬記(2)

平成22年12月~平成23年2月の報告


第52次日本南極地域観測隊ロゴ

  1. 南極&昭和基地目前

  2. いよいよ昭和基地へ

  3. 夏作業

  4. 越冬生活の始まり

  5. 夏隊の帰国

  6. 越冬成立

南極&昭和基地目前

 フリーマントル出発から10日が過ぎ、昭和基地到着までの残りわずかな時間を使って、安全講習が続きました。南極という特殊な地域で生活するための講習のほかに、建築現場での安全対策や怪我、病気対策の医療講習、また南極で運転(操縦)しなければならない装(そう)輪車(りんしゃ)や装軌(そうき)車(しゃ)の取り扱いについてなど、様々なジャンルにわたる講習です。 日本での訓練から繰り返しになる話もあるが、未経験の極地での生活では油断が大事故に繋がるため、自分たちの命を自分たちで守るためには必要不可欠な講習です。

 

 私たち観測隊は、しらせ乗艦後、部門毎や観測系全体、設営全体の会議も繰り返してきました。その他にも各主任によるオペレーション会議や砕氷艦しらせ側との輸送調整会議など、今後の方針を決定する会議等も何度も行われました。 

 午前中は安全講習、午後からは各種会議や打合せ、夕食後にミーティング、そしてまた打合せと、いよいよ到着という雰囲気が漂いました。

 また、この頃には野外行動食の配布も行われます。「南極観測隊は砕氷艦しらせに乗って南極昭和基地に行く」と思っている方も多いと思いますが、観測隊の中には夏期間のほとんどを野外で過ごす隊員もいます。

 

 この隊員たちは、野外行動食と呼ばれる食料、食材を砕氷艦しらせ船内で配布され、その食材を自分たちが野外で調理を行います。長い隊員は1カ月ほど野外生活となるため、配布される食材も相当な量になります。

 

 12月14日、最後の時刻帯変更があり、昭和基地との時差が無くなりました。つまり、日本とは6時間の時差があります。1時間ずつ計6回の時刻帯変更だったので時差ぼけは感じなかったです。

16日とうとう太陽が沈まなくなりました。

 

 白夜です。

 12月18日、天候が良く絶好の写真日和となりました。第52次隊全員で人文字写真(52を形取ったもの)を撮影しましたが影が長すぎたため失敗に終わりました。

第52次隊全員で人文字写真

第52次隊全員で人文字写真「52」を撮影

(市川隊員は、最前列の右端)

 12月20日には、しらせのヘリコプター(以下「しらせヘリ」)の試運転が始まりました。 この日の19時29分、定着氷に砕氷艦しらせが進入しました。

 この時点では第1便出発は22日。南極昭和基地までいよいよ残り2日となりました。

 第1便出発予定の前日(21日)、早朝から体調がおかしい。朝3時から腹痛に襲われ下痢と吐き気が続きました。

 顔も青ざめどうしていいかわからない。ここまで激しい腹痛は今まで経験したことがありませんでした。

 腹痛の原因も思いつかず「なぜ前日に?」と情けなくなりましたが、この激痛は自分ではどうにもならなかった。

 起床時間の6時を待ってドクターに診断を依頼しました。新しらせの医務室で点滴を受けることになりました。夜まで7本の点滴を受け、なんとか歩けるようになりました。

 庶務でありながらミーティングを欠席しました。なんとも情けない。 

 しらせヘリの調整が難航したため、第1便の出発が1日伸び23日の出発となりました。

 皆さんには申し訳ないが助かった気分でした。 

 おかげでドクターストップも解除され昭和基地入りできます。

いよいよ昭和基地へ

 12月23日、いよいよ昭和基地(以下「昭和」)入りの日です。

 今日から南極での生活が始まります。ここまでは、今日からの生活の準備期間でした。

 これから何が起きるのか…楽しみで朝から落ち着きませんでした。

 光栄なことに第1便に乗ることが出来るようになりました。

 夏庶務が先に昭和入りする予定が、数日前に行われた輸送業務会議の中で担当の変更があり、私が昭和側で荷受けをすることに決まったからです。

 山内第52次観測隊長と中藤しらせ艦長をはじめ、ドーム基地に向かう隊員やその準備作業を行う隊員たちと共に、ヘリコプターに乗り込みました。写真で見たことのある風景だったが、全く違うところにも感じられ、なんとも不思議な感覚でした。

         【夏の昭和基地】

昭和基地

昭和基地(ヘリコプターより撮影12月23日)

 とうとう?やっと?とにかく12月23日、私は南極昭和基地に来ました。

夏作業

 昭和入りしてからは嵐のように毎日が過ぎて行きました。

 しらせでの庶務業務は基本的に夏庶務に任せ、越冬生活の準備をしてきましたが、急遽、先に昭和入りすることになったため、宿舎となる夏宿舎(通称:リバーサイドホテル)での隊員の生活は庶務がリードしなければなりません。

 皆がリズムよく生活し夏作業に打ち込めるよう、しらせの中で準備をしてきたが、いざ基地に入ってみると勝手が違ったり、問題が発生します。その度に不公平が無く、さらに無理のかからないようなルールの変更をします。

 夏期間の間は私の仕事はもちろんだが、第52次隊の夏オペレーションをやり遂げるため、建築現場など、専門以外の場所でも業務にあたります。自然エネルギー棟の建築と大型大気レーダー(通称“PANSY「パンジー」”)の建設が夏オペレーションの目玉となっています。

 建築のプロの指示のもとドクターや調理隊員など、すべての隊員が自分の仕事の合間を縫って建築作業にあたっています。12月は好天に恵まれましたが、1月は観測史上最小の日照時間であり、1か月の平均風速も史上最大を記録するなど最悪の天候条件でした。

 作業ができない日が続き、「完成するのか?」と焦りもありましたが、しらせ乗員の作業支援もあり、なんとか予定していたところまでは進みそうです。私的には夏の間、庶務業務の他に輸送業務があります。

 

 すべての物資が届いたかどうかチェックをしながら、所定の場所まで移送する作業です。

 しらせからは、最初はヘリコプターによる空輸で物資が届き、しらせが昭和基地のそばに到着した後は海氷上を雪上車で運ぶ氷上輸送が始まります。氷上輸送の時の雪上車は第52次隊の機械部門と気象部門の隊員が操縦します。空輸も氷上輸送も物資が届くのは基地の入り口までで、そこから所定の場所までの移送は第51次隊の皆さんが業務支援をしてくれます。1,000を超える物資が次々と運び込まれます。

氷上輸送中に同行の韓国メディアから取材を受けている市川隊員
輸送中、橇(そり)が破損し3台の雪上車でラフタークレーンをけん引している

氷上輸送中「なぜ深夜に行うのか?」と同行している韓国メディアから取材を受けている市川

隊員          

 輸送中に橇(そり)が破損するトラブルが発生し3台の雪 上車でラフラークレーンをけん引している

 何が届いたのかチェックし、それを何処に運ぶのか指示を出さなければ移送業務がストップします。空輸のときはヘリコプターが離発着するたびに起きるダウンウォッシュから身を守りながら、また、氷上輸送の時は海氷が安定する深夜に作業を行うため、寒さと眠気に悩まされながらの作業でした。

 準備空輸、氷上輸送、本格空輸と続き1月23日、無事最後の物資が中藤しらせ艦長から山内隊長に手渡された時には、日本からご指導いただきながら一緒に輸送業務にあたってきた大塚副隊長と、無線でお互いの労をねぎらい、やりきった満足感で目が潤みました。

 2月に夏隊が帰国する時の持ち帰り輸送がまだ残っていますが、とりあえず輸送業務の第1段階終了が終了しました。

 越冬開始まであと1週間。夏作業も大詰めです。この時期には南極でも数時間だけ日が沈むようになります。

 白夜の終わりは、夏期間の終わりを告げようとしていました。

越冬生活の始まり

 2月1日、越冬交代式が執り行われました。

 

 いよいよ越冬生活の始まりです。

 

 昭和基地時間で午前10時より、山内観測隊長、中藤しらせ艦長他、52次夏隊やしらせ乗員など、総勢133名が「19広場」に集まり、盛大に越冬交代式が開催されました。

越冬交代式写真

越冬交代式(2月1日)左から3人目が市川隊員

 前次隊庶務が越冬交代を宣言した後、進行が私に代わりました。この日まで庶務として会議等の進行をすることは多かったが、さすがにこの日は緊張していました。(珍しく緊張してた?と数人から言われました)

 越冬交代式が終了した後、前次隊がしらせに戻るのを見送りました。

 1年間、越冬生活をしてきた前次隊のほとんどの方が帰国の途につきます。「お疲れ様でした。我々52次隊がしっかり引き継ぎ基地を守ります。」全員がヘリポートに集まり、前次隊の労をねぎらい、見送りました。

 

 やりきった感、まだ居たいという気持ち、色々な思いが交差しているのだろうと思います。笑顔や涙が交互に見え隠れする51次隊の先輩たちは素敵な表情でした。来年、私たちはどんな顔でこの日を迎えるのだろうと思いました。

 越冬生活が始まったとはいえ、まだ夏作業は終わっていません。

基地の維持管理を行いながら夏作業が続きました。

 天気が悪く風も強かった1月とは違い、2月は晴れる日が多かったが、その分、放射冷却現象により気温が下がっていました。

 外で作業をするにはどちらにしても過酷な条件だったが、自然エネルギー棟の建設とPANSY(パンジー)アンテナ作業が夏隊帰国の予定日ギリギリまで続けられました。

 2月17日、細かい作業は残っていますが、52次隊で行う建屋の工事が終了となり、自然エネルギー棟の上棟式が執り行われました。

 私は初めての体験でしたが、これまでの安全に感謝し、今後もこの建屋が無事であることを祈念して上棟式は厳粛に執り行われました。

夏隊の帰国

 2月18日、荒天により延期も検討されましたが、帰りの海洋観測への影響も出るため、予定どおり「最終便」が飛びました。最終便とは夏隊と物資がしらせに戻るために最後に飛ぶヘリコプターのことです。つまり、この日からいよいよ越冬隊30名の生活になります。

 極地「南極」で共に笑い、共に悩み、お互いを励まし合いながら過ごしてきた最高の仲間との別れの時、自然と涙があふれ、何度も何度も握手したり抱き合ったり、「元気でな!」「頑張れよ!」と声をかけ合い、ヘリコプターが飛び立つ間際まで、お互いにエールを送り合いました。

最終便の日 大塚副隊長と

最終便の日、昭和基地19広場にて

(大塚副隊長と市川隊員)

 この日、夏隊の仲間たちとの色々な出来事を写真を見て思い出してみました。彼らとの出会いは、単純に仲間が増えたというものではなく、自分の成長のためにも不可欠であり、最高の出会いだったと、今回、第52次隊として南極に来るチャンスをいただいたことにあらためて感謝しました。

越冬成立

 18日に夏隊がしらせに戻り、越冬隊だけの生活が始まって2日が経った2月20日、私たち越冬隊が越冬生活に入った証しとして越冬成立式が執り行われました。

 本来なら「19広場」と呼ばれる昭和基地の看板前で成立式を行い、第4次隊でお亡くなりになった故福島氏を想い積み上げられた福島ケルン前で慰霊祭を行う予定でしたが、前日からA級ブリザードが続いたため、管理棟内での開催となりました。

 隊長が全員の名前を呼ぶ。

 帰る術がなくなったこの日、今、名前を呼ばれている仲間と1年間、共に越冬生活を送るということをあらためて自覚し、基地を守り、全員が元気で過ごし、来年2月に無事に基地をあとにすると決意を新たにし、返事をしていました。

 最後に私の名前が呼ばれた。庶務は式の進行役。隊長の横で隊員の方を見て立っていた。仲間全員の顔を見ながら「みんな、あらためて、よろしく」と思いつつ、返事をしました。

 この日、越冬体制が成立しました。

第52次日本南極地域観測隊メンバー

第52次日本南極地域観測隊メンバー

(左下が市川隊員)

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