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第52次日本南極地域観測隊 市川正和隊員の南極越冬記(10)

平成24年2月の報告

第52次日本南極地域観測隊ロゴ

 1. 最後にして最大のミッション

 2. 越冬交代式

 3. まさかの夏宿生活!?

最後にして最大のミッション

 輸送を開始すると同時に、53次隊越冬隊の越冬成立に必要な物資の選別が始まりました。

 「しらせ」が昭和基地近くに接岸できないことにより、輸送できない物資や、これから輸送しても昭和基地に1年間放置され、使い物にならなくなる物資などが発生してしまいます。

 限られた時間でどうすれば越冬に必要な物資を輸送できるか、しらせ側に残っていた53次越冬隊長及び昭和基地側で輸送業務を担当する52次、53次隊のメンバーが知恵を出し合いました。

 生活に最低限必要なのは食料と燃料。

 しかし、それだけでは観測できなくなってしまったり、基地の維持管理がままならなくなりますので、最低限何が必要なのか各部門からリストを集め、それらを輸送するにはどんなスケジュールでどんな方法が良いのか考えなければなりません。

 私が昭和(昭和基地)入りしたときは、第1便が飛んだ後、急に氷が厚くなり、「しらせ」の足は遅くなりましたが、12月31日(2010年)には昭和基地沖に接岸しました。そこは基地からもすぐに見える場所であり、氷上輸送でも1日数往復可能で、ヘリコプターによる空輸は飛び立った3分後には着陸するような距離です。その場所からの輸送でも最後の持ち帰り物資の輸送が終わるまでに、1ヶ月弱かかったんです。

 今回はそのときに第1便が飛んだ場所のすぐそばであり、氷上輸送は以前もご紹介したとおり片道30キロ。1日1往復が限界でした。2往復できないか検討はしたものの、厚い氷があるとはいえ、日中は表面の雪が融け、表面がパドルと呼ばれる水溜り状態になり、そこに雪上車がはまると簡単に脱出できなくなりますし、昭和基地に向かっている途中であれば、せっかく運んでいる物資が橇(そり)ごとはまる、あるいは、はまった勢いで物資が転落すると言う可能性があります。

 人数を増やして何とか便数を増やすという考えは通る状態ではありませんでした。

 2往復できないのであれば1回に運ぶ物資量を増やすしかない。

 1往復で運べる量はたかがしれていますし、雪上車も大型橇も不足していました。

 急遽、故障している雪上車の修理を始め、2台分の部品で1台を動くようにしたり(53次が持ち込む物資に交換部品があったのですが、それを待てないと判断しました)、本来、持ち込んだ状態で内陸旅行に出発するまで放置する予定だった特殊橇と大型橇の上に積み込まれている物資を下ろして、氷上輸送に代用しました。

 1回の輸送に最大8台の雪上車を導入し、空輸することが出来ない物資から運び始め、橇に余裕があれば、空輸する予定だった物資も積み込みました。

 ヘリコプターであれば10分程度の距離なんですが、ヘリ空輸は氷上輸送よりも天候に左右されますし、ヘリコプターは飛行可能時間が決められ、ある時間を越えると義務付けられている点検をしなければならなかったり、帰国までに飛んで良いとされる時間を越えてのフライトはできません。少しでも多くの物資を氷上輸送する必要がありました。

雪上車輸送

 

 毎日15時頃にその日の輸送計画についてのミーティングをほぼ全員で行い、17時に雪上車隊が出発。

 「しらせ」まで3時間半前後の道のりです。

 「しらせ」到着後すぐに物資を橇に積み込みますが、この作業も数時間を要しました。

クレーン作業クレーン作業
しらせへの積込み

 「しらせ」を出発すると言う無線連絡が入った2時間後、基地に残っている荷受け隊のメンバーが集合し、積み込まれた物資内容から、荷降ろしの計画を立て、到着予定時間までに荷受の準備をします。

 

ヘリコプター

 深夜1時前後から集まり作業を開始し、雪上車が到着した後、荷物を降ろし、配送先まで運搬。最後にクレーンなどの重機の給油など車両のたち下げを行い基地に戻るのは朝です。

 時には10時頃までかかることもあり、みんな不規則な生活、睡眠不足で疲れが見え始めました。

 私は朝7時頃まで作業に加わりますが、8時にはヘリ空輸が始まり、その荷受け確認作業や自分達の持ち帰り物資の荷出し作業があるため、軽く朝食を食べた後ヘリポートに向かいます。

物資輸送作業

 仮眠が1日1時間前後の生活が続きました。

 

 1週間もすると体調不良になりかけた隊員、イライラしている隊員が増えてきます。

 こんな生活を続けているのですから当然なんですが…。

 とにかく事故無く怪我無く!

 気付いたものが必ずこの目標を口にし、お互い普段以上に注意しながら毎日の作業にあたりました。

 「後2日続けることが出来れば越冬に必要な物資の輸送は終わる」との連絡があり、輸送作業の終わりが見えました。

 悪くなる可能性があった天候もなんとかもち、2月10日、53次隊持ち込み及び52次隊持ち帰り輸送のすべてを終えました。

 夏作業に使用する予定だった大型物資などそれなりの量を「しらせ」に残すことにし、日本へ持ち帰ることになってしまいました。

 持込んだ物資量の7割弱、越冬に必要な物資としては100%の輸送を完了しました。

 輸送を終えた10日の夕方、昭和基地でみる最後の晴れ間かもしれないと、皆でいつもの記念写真を撮りましたが、いつもの楽しい感じの写真とはチョット違い、皆の充実したやりきった顔が写っていました。

 オーロラやペンギン、いろんなものを下手なりに撮って来ましたが、最後に最高の一枚が写っていました。

記念写真

越冬交代式

 昨年(2011年)の2月1日以降続けてきた昭和基地の生活もとうとう終わりの日を迎えました。

 輸送作業が完了し、53次越冬隊の越冬準備が整うのを待ちましたので、予定より少し遅れた2月12日、53次越冬隊との交代式を挙行しました。

 この日は朝から霧がかかり、しらせ艦長や観測隊長にはご臨席いただけませんでしたが、52次隊、53次隊、昭和にいる全員が参加しての式となりました。

 越冬開始最初の仕事でしたが、最後も当然、私の役目は式の進行です。

越冬交代式鏡割り

 式の途中で次の越冬庶務に業務をバトンタッチします。

 去年は緊張の中で過ぎていった記憶がありましたが、今年は「これで終わりだな」とチョット寂しさも感じながらの進行でした。

 両越冬隊全員が握手を交わし、整列場所が入れ替わったところで「それでは進行も53次鈴木隊員にバトンタッチします」と握手を交わしマイクを渡しました。昭和基地での最後の公式業務が終了しました。

越冬交代式記念写真

まさかの夏宿生活!?

 越冬交代式終了後、すぐにしらせに戻る予定でした。

 確かに朝から霧に覆われ、しらせヘリが飛べない状況でしたが、昼頃には晴れるだろうと誰もが思っていました。

 しかし…。

 越冬交代式が終わっても一面霧で、昼頃まで待っても晴れてきません。

 これまで過ごしていた居住棟、管理棟には53次隊が入っていますから、一時夏宿に入りました。まさかの事態で調理してもらうことは終わったはずの、工藤さん、長谷ちゃんに昼ごはんを作ってもらい、天候回復を待ちました。

 が…

 結局その日は晴れることなく、まさかの夏宿での1泊となりました。

 さらに、その日の夜、しらせとの無線交信で明日も飛ばないとの連絡があり、2泊する話が浮上。

 みんなも「どうなるの?いつ帰れるの?」と不安になります。

 もうなるようにしかならんから、皆で飲みに行くぞ!と53次が誘ってくれた飲み会にお邪魔し、明日はOFFだから昼まで寝るぞ!と皆でたっぷりご馳走になり、翌日はゆっくり寝ていたのですが…、

 突然「間もなくヘリを飛ばします」との無線が…。

 その音で飛び起き、帰るから準備しろ!と皆を起こします。

 「イッチ(市川隊員)!どういうこと?」と質問攻めですが、「わからんけど帰ることになったから忘れ物するな!」と自分でも何が起きたんだろうと思いながら準備を急ぎました。

 しらせが定着していた付近は昭和基地と天候の違う日が多かったのですが、その日は曇り空とはいえ、昭和基地付近もしらせ付近もヘリコプターが飛べる状況で、当初は方向転換をする予定でしたが、しらせの周りの氷は7メートルとも8メートルともいわれる厚さがあり、簡単に向きが変わる状態ではなかったのです。

 「しらせ」側は、動いてはみたものの、方向を変えるには時間がかかると判断し、我々の迎えを優先したのでした。

 おかげで帰れることになったのですが、まさかの夏宿宿泊、まさかの帰艦と、最後までバタバタでした。

 2012年2月13日、残留組6名以外の24名が無事、しらせに乗り込みました。

後は一路、オーストラリア、フリーマントルへ、「しらせ」に身を委ねるだけです。


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