稚内港北防波堤ドームについて
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更新日:2026年4月1日
稚内港北防波堤ドームの歴史について
概略

【北防波堤ドーム】
稚内港とドームができるまで

【ドームの建設時の様子】
しかし、1906年(明治39年)6月の日露戦争終結に伴い南樺太が日本の領土となり、稚内が連絡港として注目を浴び始め、1920年(大正9年)から「第一期拓殖計画」の中で築港事業が開始されました。
稚内港の建設が行われている中、ドームの建設も1931年(昭和6年)から開始され、1936年(昭和11年)に竣工しましたが、その誕生には、稚内築港事務所長の「平尾俊雄」とその部下であり、北海道大学を卒業してわずか3年目の技士「土谷実」が大きな貢献を果たしました。
稚内は年中強風が吹き、波も高く、ドームができるまでの5.5mの防波堤では、高波が防波堤を易々と越えて岸壁にいる人々を襲い、時には海に転落するという事故もありました。
そこで平尾所長は、1931年(昭和6年)1月、土谷に高波から人々を守るための防波堤を設計し、同年4月からの着工に間に合わせるよう命じました。平尾所長が、柱を建ててカーブ状の庇(ひさし)で波浪を受けるという構想をフリーハンドスケッチで土谷に提示し、土谷が設計・計算するという手順でした。
当時はコンクリートを箱型のケーソンとして製造する以外に使用したケースがなく、大変な苦労を経て設計したと土谷自らが述べています。また、設計者として土谷実の名前が協調されがちですが、ドームは「平尾・土谷の合作である」とも述べています。
土谷は予定通り、わずか2カ月で設計を終え、ドームの建設が始まりました。工事は、冬期間の風浪や寒気に加え、港湾工事技術の幼稚さもあり、とても難航しました。現在でも、建設中に高波で倒壊したケーソンが海中に埋まったままとなっています。
稚内桟橋駅

【桟橋駅】
その苦労を解消するため、1928年(昭和3年)に稚内港駅(現:稚内駅)まで鉄道が延伸され、1938年(昭和13年)12月11日にはドームの前面に「稚内桟橋駅」が開業され、さらに急行列車が運行するようになりました。
これにより、乗客は列車を降りたあと、雨などに濡れずにそのまま連絡船への乗継が可能となり、稚泊航路が全盛期を迎えました。駅内には乗船待合所や案内所、貴賓特別待合室、婦人待合室、日本食堂1号店も設置されました。
稚泊航路の廃止

【稚泊連絡船】
改修工事とドームの存続

【昭和46年頃のドーム】
現在のドーム

【マラソン大会】 【ドームライトアップ】 【WAKKANAIみなとコンサート】
現在では、市民の憩いの場、イベント会場として活用され、コンサートやライトアップなど、年間を通して様々な催しが開催されています。 また、観光スポットとしても多くの観光客が訪れており、他にも映画やCMのロケ地として利用されることもありました。 ドームは、稚内市の歴史的建造物の中で最も代表的なものであり、稚内市のシンボル的な構造物として、約90年以上前から現在まで市民の手によって大切に残されてきました。お問い合わせ
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