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第六回 戦後の混住


吉岡さんが混住について語る様子(育英館大学制作映像)

 第6回目は樺太全島をソ連軍が掌握した後の物語。日本人は引き揚げるまでの数年間、樺太で生活しますことになります。その間、日本人がロシア人(※)と一つ屋根の下で暮らした「混住」について、吉岡 潤三さんの物語を紹介します。

※ 当時、樺太住民は「ソ連人」を「ロシア人」と呼ぶことが一般的だったため、本記事内でもロシア人と表記しています。

突然始まった「混住」

樺太引揚者吉岡さん

 日本が終戦を迎えた後も、樺太では8月22日までソ連軍との戦闘が続きました。樺太全島を掌握したソ連軍は島民の脱出を禁止。日本の引揚事業が進むまでの数年間、樺太では日本人とロシア人が同じまちで、しかも同じ家に暮らすという、異例の「混住」の時代が訪れました。
 「私が5歳くらいのころです。突然、トラックが何台か町に入ってきました。そのうちの1台から降りたロシア人夫婦は、そのまま私の家の一室を占居して、同居人として2年間、一緒に暮らすことになりました。私は子どもだったから詳しいことは分からなかったけれども、そういう命令だったんでしょうね。」
 そう語るのは吉岡潤三さん。終戦直後は4歳で、落合町近くの炭鉱街・西内淵で暮らしていました。父の鉄太郎さんは石炭資源調査会社の輸送部門の責任者として専門職に就いていたため、終戦後もロシア人に仕事を引き継ぐまでは引き揚げが許されず、共に暮らすことになりました。

異国の文化に触れる

 当然、ロシア人夫婦とは言葉が通じません。お互いに身振り手振りのやり取りが始まりました。
 「時には一緒に食事をし、家族同様に暮らしたものです。ロシアの黒パンをよく食べましたね。少しすっぱい味がする日常の主食でした。あの独特の酸味は今でも懐かしい味です。」
 急に異国の文化に触れることになった幼ない吉岡さん。そのほかにも強く印象に残っている味があります。
 「生活文化でいえばバターっていうのは初めて味わったかな。“なんて、うまいんだろう”と思いました。それと砂糖も、彼らと暮らしてから舐めた記憶がありますね。当時は甘いものに飢えていましたよ。」

吉岡一家
吉岡さん一家(吉岡さん提供)

ハジャインとマダム

 吉岡さんは家にやってきた夫婦を、ハジャインとマダム(ロシア語で主人と夫人)と呼んでいました。
 「ハジャインは鉱山の監督、マダムは小学校の校長先生。マダムはウクライナ出身でしたね。」
 一緒に暮らすにうちに、自然とロシア語も覚えていったそうです。
 「子どもはすぐ言葉を覚えちゃうよね。私もロシアの子どもたちと仲良くなったり、ケンカしたりしました。彼らは一般に体は大きいですが大人しかったので、むしろ私の方がリーダーでした。たまに負けて帰ると、たまたま家にいたハジャインが“コノヤロー”って怒って、ロシア人の子どもたちを叱りに行くんです。だからそのうち、“吉岡をいじめると怖いおじさんが来るぞ”と思われていました。」
 マダムはよく家で算数を教えてくれたそうです。
 「日本に引き揚げたあと、数か月遅れで小学校に入ったけれど、母から日本語を、マダムから算数を習ってい
たおかげで、同級生と比べ、それらはあまり遅れがなくてすみました。」

炭鉱にまだ残る石炭
西内淵(現ザゴルスク)に残る石炭(渡辺公仁人さん提供)

ロシア人夫婦の過去

 日本人の家に住み着いたロシア人家庭には、子どものいる家族も多くいました。
 「そんなに広くない家に別の家族が入っちゃうんですから大変ですよ。子どもがいるとなおさら。でも、私のところは夫婦ふたりでした。話しを聞くと、夫婦がウクライナにいたころ、子どもを5人授かったそうですが、ドイツ軍の空爆により、全員を失った。」
 第二次大戦中、ナチス・ドイツはソ連に侵攻し、当時ソ連領だったウクライナを占領しました。
 「だから、ハジャインとマダムは自分の子どもみたいに、私を可愛がってくれたんだと思います。そういう意味では、私は恵まれていたかもしれないね。」

当時の吉岡さん
樺太時代の吉岡少年(吉岡さん提供)

国同士と個人同士

 札幌に引揚後、吉岡さんは学業に励み、後に設計事務所を設立。公共施設も数多く手掛けており、前職の厚生省技官時代には国立療養所稚内病院(現市立稚内こまどり病院)の設計監理に関わった事もあります。
 吉岡さんは混住の経験もあり、これまでもロシア語の勉強や、ロシア人との交流も続けてきたといいます。
 「ロシアという国に対しては、私は北方四島の問題もあって複雑な思いがありますよ、凄くね。でも、いわゆる個として、一人の人間としてのロシア人には、非常に懐かしさと、親しみやすさも感じるんです。」
 吉岡さんにお話を聞いたのは令和3年10月。その4ヶ月後の令和4年2月24日、ロシアはウクライナ侵攻を開始し、それは現在も続いています。その後、再びお会いしたとき、吉岡さんは「なぜ、ロシアはあんなことをしてしまったのかな…。」とつぶやきました。
 吉岡一家とロシア人夫婦が暮らした西内淵の炭鉱は、現在、閉山しています。

西内淵周辺の炭鉱の様子

西内淵周辺の炭鉱の様子(渡辺公仁人さん提供)

映像作品のご紹介

 吉岡さんへの聞き取りは、稚内市内にある育英館大学の学生とともに行っています。
 育英館大学では聞き取りをもとに、ドキュメンタリー映像を制作しており、本記事の冒頭で紹介しています。
 この作品は全国のコンテストなどで多数受賞しており、混住の背景や、日本とロシアの交流がとても分かりやすく、説明されています。ぜひ、ご覧ください。

お問い合わせ

教育委員会教育部社会教育課
〒097-8686
稚内市中央3丁目2番1号
電話:社会教育グループ 0162-23-6520、0162-23-6056、スポーツグループ 0162-23-6521
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