第三回 豊原空襲
第三回目は避難者を襲った豊原空襲について西本美嗣さん、吉田欽哉さんの証言を紹介します。戦争の悲惨さ、故郷を追われた切なさ、そして命をつないだ想いに耳を傾けてください。
豊原に集まった避難者

西本さんは豊原駅近くに住んでおり、終戦当時は小学3年生でした。
「豊原は札幌のように碁盤の目になった街でした。駅から神社までを神社通り、それを垂直に交差する大きな道を大通りと言います。私の家は大通り南10丁目にあったんです。」
稚内市北方記念館にある豊原の地図を指さしながら、西本さんは当時の様子を詳細に語ります。
「豊原は樺太の中心都市ですから、色んな施設やものが集まっていました。公共機関はもちろんのこと、教育施設だけでも小学校、中学校、女学校、それから医学専門学校、師範学校、ほかにも工業学校、商業学校、全部ありました。戦時中でしたが、すでに電話が自動化していましたよ。ダイヤルで回す式でね。北海道に避難して、まだ自動化されていなく驚きました。」
戦時中にもかかわらず、樺太ではその雰囲気はあまり感じられなかったそうです。しかし終戦直後、街の様子が変わったと言います。
「8月15日(終戦)の翌日くらい。友達が駅前広場に人が集まっていると言うので見に行きました。そうしたら、どうやら国境地帯から逃げてきた避難者がたくさん(※1)。役人が寺や学校などの避難場所に、その人たちを振り分けていました。そして20日、西の空が真っ赤になりました。真岡がやられたんです。次の日には真岡からの避難者も駅に集まっていましたよ。(※2)」
その頃から、豊原の街は混乱を極めていきました。
※1 国境近くの恵須取から避難した様子は第1回の小林さんの、同じく国境近くの敷香からの避難は第5回の大鵬親方のエピソードを参照してください。
※2 ソ連艦の攻撃を受けた真岡の様子は第4回の特集で紹介しています。

樺太全島から避難民が集まっていた豊原駅前(稚内市所蔵)
始まった豊原空襲
「22日の昼食後、おそらく1時過ぎ、戦闘機の音がしたんです。父親が「ソ連が偵察に来たな」と言いました。まさかやられると思わなかったから、窓から覗いたんです。真っ黒な無印の戦闘機が3機。何だろうと思ったら、爆弾を一発、駅に落としました。そこから空襲が始まりましたね。」
西本さんが見た爆撃を、当時陸軍の衛生兵で、現在利尻町在住の吉田さんも目撃していました。吉田さんは国境近くの上敷香陸軍病院に勤務していましたが、終戦時は命令で豊原にいました。爆撃の土煙を確認すると、救護のため、すぐに駅へ向かいました。

「車で向かったのはいいさ。すぐに戦闘機が来て、脅してくる。民間の防空壕に入って、音がしなくなってから外に出ると、車のボディには機銃を受けて、三・四発の穴が空いていたよ。」
西本さんも走って逃げる途中、ソ連機の機銃掃射に見舞われました。
「もっと細い道に逃げればいいものを、みんな大通りに集まって逃げるわけです。川のようになってね。そうしたら、戦闘機が飛んできました。誰かに「みんな伏せろ。」と言われたんです。伏せたら、その上から機銃掃射。戦闘機が通り過ぎたら、また立って逃げるんですけど、運悪く弾に当たった人がいる家族は大騒ぎになるんです。ところがそんなの構ってられないから、そのままその家族を置いて、みんな逃げるわけです。本当にひどい話なんですけど、あの状況じゃ、そうせざるを得ないんですよ。」
ソ連機は豊原駅を爆撃した後、逃げる住民や避難民を目掛け、機銃掃射をしたと考えられます。

機銃掃射があった豊原の大通り(稚内市所蔵)
爆撃後の豊原駅前広場
駅前から逃げる樺太島民を横目に、駅に着いた吉田さんが見たのは…。
「土を被って、黙って座っている避難者がいたよ。何だろうとよく見たら…。あれは一生忘れられないね、首が無いんだから。おそらく爆風で飛ばされたんだ。家から大きくて重いリュックサックを背負って逃げてきたから、その重みで体も横に倒れることなく、座った状態のまま。かわいそうに、腕には男の子を抱いていたよ。別の方向を見たら、幼稚園児くらいの女の子が一人でぽつんと立っていた。片腕の肘から下が無くなっていたから、すぐ止血をしたよ。「お姉ちゃん、お母さんは。」と聞いても、何も言わない。爆音で耳が聞こえなくなっていたのかな。その後、その子を病院に連れて行きました。」
病院から駅に戻り、救助活動を再開した吉田さんですが、再びソ連機の襲来にあいます。
「戦闘機が来たから、すぐに近くにあった防空壕に入ろうと思ったんだけど、すぐに軍曹が「ここはダメだ」と言うんだ。よく耳を澄ませると、中からうめき声が聞こえた。見た目ではわからなかったけど、一発目の爆弾で防空壕の中が潰れてしまい、その中にいる人の声のようだった。すぐに別の地下壕に走ったよ。もしあの防空壕に入っていたら、爆弾で俺も死んでいただろうな。」
ソ連軍は二発目の爆弾を落として去っていきました。
「夕方、病院に帰ったら、玄関の前におにぎりと鮭があってね。食べようとつかんだ手には、べったり真っ赤な血が付いていたことに気が付いたんだ。樺太で一番思い出すことは、やっぱり豊原空襲だね。あの時はもう戦争が終っていたのに、なんで、家を捨てて逃げてきた人が死ななければならなかったのか。」
戦後の混乱もあり、この豊原空襲の死者数ははっきりとわかっていません

爆撃のあった豊原駅前広場から神社通りを望む(稚内市所蔵)
その後の人生
吉田さんは戦後、ソ連軍によってシベリアで過酷な労働を強要されました。大勢の仲間をそこで亡くし、凍土を掘り、埋葬したそうです。利尻町に戻ってからは漁師を生業とし、町議会議員を務めるなど、地域の発展に尽くし、現在は語り部として活動しています。100歳となった今でも、シベリアで亡くなった仲間の慰霊のために碑を建てるなど、力を尽くしています。
西本さんはソ連占領化の樺太で2年間暮らした後に引き揚げました。北海道議会副議長を務めたのち、全国樺太連盟会長に就任。樺太の後世への伝承に尽力され、令和6年に逝去されました。樺太連盟は稚内市に対し、多数の貴重な樺太の資料を移譲され、それらは現在、稚内市樺太記念館で展示しています。
「「ふるさと」って歌、ありますでしょ。最後の章の歌詞「こころざしを果たしていつの日か帰らん」。あれはもう我々にはできない。樺太は、いくら志を果たしても帰れるところじゃない。悲しい島だなと思います。」
西本さんは最後にそう語りました。
関係施設のご案内
西本さんがとても詳細に描かれていると話す豊原の市街地地図は、稚内市北方記念館に所蔵されています。また、生前の西本さんが樺太を語る様子は稚内市樺太記念館で映像展示されています。
ぜひ、ご来館いただき、樺太島民の声に耳を傾けてください。
開館期間:4月29日から10月31日まで
開館時間:
9時00分~17時00分(6月1日~9月30日は21時00分まで開館)
※閉館の20分前までに入館願います。
休館:
毎週月曜日(月曜日が祝日のときは、その翌日)
※ 6月1日~9月30日は無休
入館料:
昼間 高校生・大学生・一般:400円、小中学生:200円
夜間 高校生・大学生・一般:200円、小中学生:100円(6月1日~9月30日の18時00分~21時00分)
所在地:稚内市ヤムワッカナイ
ホームぺージ:稚内市ホームページをご覧ください
開館時間:10時00分~17時00分(入館は16時40分まで)
休館:
4月~10月は無休
11月~3月は毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は翌平日)・年末年始(12月31日から1月5日)
入館料:無料
所在地:稚内市港1丁目6-28(稚内副港市場2階)
ホームぺージ:稚内市ホームページをご覧ください
お問い合わせ
教育委員会教育部社会教育課
〒097-8686
稚内市中央3丁目2番1号
電話:社会教育グループ 0162-23-6520、0162-23-6056、スポーツグループ 0162-23-6521
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