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稚内消防署 大火災の歴史

明治26年(1893年)5月

 当時の戸長は警察署に依頼して自由勝手に建てた草屋根の家屋を建物の移動草屋根を柾葺に変えさせ街並を整えようとしていた。しかしその要求を最後まで聞かなかった草小屋からの出火であった。
 当時の記録には、「飯田吉次郎の隣に草小屋一戸残り居る。近隣の者建て替えを願いしに承知せず、五月この草小屋より出火、稚内市街以南を焼き払へり」とある。幸いこの年豊漁の景気に湧き、町はたちまちのうちに復興した。

[消防史 稚内の消防]より

明治44年(1911年)5月17日

 正午頃、天塩方面の火入れの火が延焼して南西の風に煽られて燃え広がり、南の山林に燃え移ると山の上からの風速20メートル以上の風に乗った火の玉が市街地の弁天を越えて、南浜通付近に落下出火、午後2時頃には市街の中枢部に延焼した。
 宗谷支庁・警察署・郵便局・町役場・小学校他重要機関はほとんど罹災。752戸全焼、損害ざっと300万円。木がこんもり繁っていた裏山もハゲ山同然になったが、奇跡的に死者無し。
「稚内市街地焼け残り217戸あるも漁舎のみにして稚内町は全滅なり。絶食2昼夜に及びし者あり、寝具なく着衣なく赤裸の者多数あり。官署焼跡に天幕を以て仮設せんとするも大雨にて意の如くならず惨また惨。」(明治44年5月24日北海タイムス)
 余談ですが、この翌年の山火事に追われた熊が天塩から海を泳いで利尻島鬼脇村二つ石海岸に上陸した事があったとある。

[消防史 稚内の消防]より

昭和3年(1928年)10月25日

 午前0時半頃、市街中心地の本通北1(中央3丁目)から出火。出火時間が真夜中であったため発見が遅れたのと、建物が込み合っていたため、たちまち付近に延焼して大火災となった。
風速12メートルに及ぶ南西の風に煽られ燃え広がり現在の市役所付近から海側に向かって中心街の家屋を焼き払い、681戸を灰にして朝の6時ころようやく消えた。焼死者2名

[消防史 稚内の消防]参照

昭和5年(1930年)11月1日

 午後8時頃、北浜通5丁目旅館の風呂場付近より火災が発生。風に乗って北浜通から波止場通北側の家々に燃え移り、さらに山下通1丁目付近に延び、町役場庁舎を焼き、本通北4丁目から仲通5丁目にぬける出来たばかりの北門廉売の店々を最後に焼いて真夜中12時近くやっと鎮火した。
 被災戸数216戸、幸い死傷者はなかったが、明治時代、昭和3年(1928年)、昭和5年(1930年)と3回の大火の洗礼を受けた人も多かった。2回目と3回目は僅か2年の間隔で復興もまだ出来ないうちの大火であって、被災者は勿論のこと町としても財政上に一大困難をきたした。

[消防史 稚内の消防]参照

平成14年(2002年)6月29日 18時17分(消防覚知)

 火災現場はJR稚内駅前の繁華街で古い木造家屋の飲食店が隣接・密集した市内中心部の一角であり、出火元建物は、昭和6年(1931年)に建築され、その後増改築を重ねた木造モルタル2階建てで、東西に約50メートル南北に約40メートルと3方向に出入り口のあるT字形の大建築物の複合商業店舗であった。
 出火当時、折からの強風と木造建物の密集、また建物がT字形で筒状の構造上、火が建物内を走り、瞬く間に隣接する建物に延焼し、多数の機関からの応援を受けるも、鎮火したのは翌朝5時25分、焼失面積は8,845平方メートルにも及んだ。

気象状況

  • 天候:晴れ
  • 気温:18.6度
  • 南西の風 9.1メートル

被害状況

  • 焼失面積:8,845平方メートル
  • 火災棟数:31棟(全焼25棟、半焼2棟、部分焼4棟)
  • 被災世帯数
    全焼:15世帯 33人
    半焼:3世帯 3人
    部分焼:2世帯 5人
  • 出動人員:消防車 11台 64名
  • 消防団:13台 206名 

応援機関

  • 猿払支署:2台 5名
  • 稚内空港事務所:3台 20名
  • 稚内航空自衛隊:3台 43名
  • 稚内海上保安部:3隻 79名
  • 稚内警察署:24台 90名
  • 民間業者(重機):4台 29名
  • 市役所職員:250名
  • その他職員:27名

お問い合わせ

稚内消防署
〒097-0021
稚内市港5丁目1番37号
電話:消防本部 0162-23-2177 消防署 0162-23-2176
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