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江戸幕府は、外口から、今の北海道(蝦夷地)やサハリン(樺太)を護るため、文化4(1807)年3月、全蝦夷地直轄を決行しました。
同年4月、文化3(1806)年9月に樺太が襲撃されたこと、文化4(1807)年5月にエトロフ島がロシア艦に襲撃されたことの報せを受け、箱館奉行は直ちに江戸に報せるとともに、箱館を守備していた津軽兵を宗谷に急行させ、さらに東北の4藩(津軽・南部・秋田・庄内)から総勢3,000名が出兵しました。
津軽藩士が宗谷に派遣されましたが、厳冬のため、多数の越冬死者を出したといいます。
そして翌文化5(1808)年に、同じ東北の会津藩士1,633名が交代要員として派遣され、宗谷には370名が配置、そのほかに樺太、利尻、松前にも分駐したとされています。
宗谷公園に安置されている墓は、「北の防人」として北方警備に従事した藩士達が自然の猛威により犠牲となった者を葬ったものであり、近くの海岸に点在していたものを明治時代に村民の手により1カ所に集め、さらに昭和32(1957)年、現在地に移されたものです。
以来、地元では毎年慰霊祭をとり行い、この地で果てた旧藩士の冥福を祈っています。詳しくは稚内珈琲物語をご覧ください。
・住所 | 稚内市大字宗谷村字宗谷 | |
・料金 | 無料 | |
・アクセス | ||
JR稚内駅からバス「天北宗谷岬線」で約40分「宗谷」下車、徒歩5分 JR稚内駅から車で約35分 |
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・駐車場 | 有り | |
・その他 | 冬期間閉鎖する箇所あり |
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