◆ドーム完成物語◆

北防波堤ドーム
大正時代の終わりから、樺太との間に稚泊(ちはく)航路(稚内−大泊)、稚斗(ちと)航路 (稚内−本斗(ほんと))が開設されていた稚内港は、北方交通の要衝として防波堤や岸壁など港の整備が急がれていましたが、四季を通じて強風が吹き波が高いこの地では、建設中の防波堤ケーソンが高波で倒壊するなど(今も海中に埋まったまま)思うように工事が進まない状態が続いていました。
そんなとき、稚内築港事務所へ一人の若き技師が赴任してきました。それは、北海道大学を卒業してわずか3年目の土谷実氏だったのです。
昭和6年(1931年)1月の末、突然所長から樺太航路を高波から護るための岸壁を設計し、4月からの着工に間に合わせるように命じられた時、土谷氏(当時26才)は愕然としたといいます。
何しろ、当時はコンクリートが建築・土木用の資材としてようやく普及しはじめた頃で、箱型のケーソンを作る以外にはこれといったコンクリート工事はまだなかったし、技術資料もなかった時代です。
土谷氏は、北大工学部の第一期生で、卒論のテーマも『コンクリートアーチ橋梁の設計』でしたから、上司もコンクリートのことなら彼に任せれば良いと考えたに違いありません。当初の直立5.5mの設計では波には勝てず、平尾所長が「庇をつける」ことを指示し、設計を任されたのです。
驚いた土谷氏は母校の教授を訪れ相談したもののさっぱり目標が見えず、すっかり落ち込みながら稚内に帰ってきて紙にエンピツを走らせたところ、今日の北防波堤ドームの形になったといいます。後に、土谷氏は「おそらく大学時代に先輩から見せてもらった古代ギリシャの神殿の写真が潜在意識にあったかも知れません」と語っています。
ところで、お役所の土木工事は、今でこそ建設業者が施工しますが、当時は道や国の職員が作業員を雇って直接工事を行うのが普通で、当然、土谷氏も図面書きから強度計算まですべて一人で行い、実際の工事も第一線に立ち現場の指揮にあたったそうです。
長い現場の経験から生まれたわけではなく、若き一人の青年が既成概念に囚われることなく自由奔放に設計したからこそ、このような斬新なデザインの防波堤になったのでしょう。ただ無我夢中で建設に取り組んだ結果といいますが、この美しい北防波堤ドームは、平成13年10月に「北海道遺産」に指定され歴史的遺産として、これからも長く人々に愛されていくことでしょう。
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