ここからメインメニュー

メインメニューここまで

サイト内共通メニューここまで

ここから本文です。

サハリンへの旅

サハリン島は、ロシア連邦共和国の極東、北海道宗谷岬の北方約43kmに位置する南北約950km、東西最大約160kmの細長い島で、その面積は7万6,400平方kmあり、北海道のおよそ9割程度の大きさの島です。
 
人口はサハリン全体で約52万人と、北海道のおよそ1/10で、中心都市であるユジノサハリンスク(旧・豊原)市には、約18万人が住んでいます。
 稚内から宗谷海峡を隔て対岸に臨むサハリンですが、日本とサハリンは、昔から様々な歴史を刻んできました。

 サハリン(樺太)は、もともとアイヌやウィルタ(オロッコ)、ニブフ(ギリヤーク)等の民族が住んでいた島ですが、そこへ日本やロシアから人々が移住して雑居していた島でした。日本とロシアの間では、その帰属の問題が話し合われながらも、なかなか解決せず、ようやく明治8年(1875)に、樺太千島交換条約が調印され、厳しい気候から農業開拓には不向きだと判断した日本は、樺太を放棄することにより千島列島の領有権等を獲得しました。

 ロシア帝国時代のサハリンは、流刑地として知られており、この地を訪れた文豪チェーホフは囚人達の抜け道のない絶望的な運命を描いたルポルタージュ『サハリン島』(1895年/明治28年)を著しています。

 明治37年(1904)には、日露戦争が勃発しましたが、翌年のポーツマス条約で北緯50度以南の樺太が日本領となり、豊原(現・ユジノサハリンスク)に樺太庁が置かれてからは、豊富な資源の開発に力がそそがれるようになり、北海道をはじめ東北や北陸などから移住する人が増加しました。

 1923年(大正12)に稚内と大泊(現・コルサコフ)間に稚泊航路が、また翌年には稚内~本斗(現・ネベリスク)間に稚斗航路という定期航路が相次ぎ開設されました。南樺太にはおよそ42万人もの日本人が生活していましたが、第2次世界大戦終結後、ソ連邦・ロシア共和国の領土となり、日本人の大半は帰国しました。

 かつては戦後の反日感情も強かったため、色々な事情から引き揚げることができなかった残留日本人は、日本語での会話をタブーとし、韓国人や朝鮮人を装った人も少なくなかったといいます。

 戦後、長い間、墓参団等を除く一般の渡航は許可されず、近くて遠い島と言われてきましたが、旧ソ連のペレストロイカ政策により、ロシアの国内情勢が変わったことから、平成元年(1989)には稚内とホルムスク(旧・真岡)間に、旅行会社のサハリンツアーがチャーター船という形で実現しました。

 そして、平成7年(1995)には、いよいよ稚内とコフサコフ、小樽を結ぶ日ロ定期航路が開設されました。(小樽からの航路は現在、休止中)

 これにより50年ぶりに稚内とコルサコフ(旧・大泊)間に定期航路が復活し、稚内からおよそ5時間半の船旅で、ヨーロッパの香りがするお隣の国へ行くことができるようになりました。かつての故郷を懐かしむ人はもちろん、釣りやバイクでのツーリングなど雄大な自然を楽しむ旅行客も増えています。また、買物などの目的で、サハリンから当地を訪れる観光客も増加しています。

>>サハリンガイドブック(新しいウィンドウで開きます。)

お問い合わせ先

建設産業部サハリン課
稚内市中央3丁目13番15号
交流促進グループ 23-6486(直通)

メールでのお問い合わせはこちら

本文ここまで

ここからフッターメニュー