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「アレクサンドロフスク・サハリンスキー」? (2017.11.17)

先月話題にした<アジアリーグアイスホッケー>は現在もレギュラーシーズンが継続中です。

11月に入った時点で、リーグの中で“3強”という感じで抜け出しているのは、<サハリン>、八戸の<東北フリーブレイズ>、韓国の<アニャンハルラ>です。恐らく、この3チームで最後まで競うことになりそうです。

<サハリン>は10月末から11月初めに苫小牧、釧路で相次いで試合を行い、3勝1敗でその遠征を終えて「抜け出した」感じになりました。目下、<サハリン>は首位です。次節で八戸の<東北フリーブレイズ>をユジノサハリンスクに迎えますが、あるいはこの対戦の結果が、レギュラーシーズン優勝の行方を左右することになるのかもしれません。

サハリンの色々な場所を様々な型で訪ねていますが、9月に「アレクサンドロフスク・サハリンスキー」を訪ねる機会がありました。

アレクサンドロフスク・サハリンスキーは北緯51度の日本海側にある街です。1905年から1945年まで、日本領の樺太は北緯50度線より南まででしたから、その1945年までロシアの、あるいはソ連のサハリンでの中心的な街であった経過がある場所です。

ユジノサハリンスクからアレクサンドロフスク・サハリンスキーを訪ねるとすれば、夜行列車とローカルなバスを乗り継ぐことになります。

ユジノサハリンスクからティモフスコエへの列車(写真)ユジノサハリンスクからティモフスコエへの列車

夜10時40分に夜行列車でユジノサハリンスクを発ち、朝8時に北緯50度線を越えた辺りのティモフスコエに着いて、待機しているバスに乗り、朝9時半前にアレクサンドロフスク・サハリンスキーのバスターミナルに着くような具合です。“バスターミナル”と言っても、券を売る窓口が入った小さな建物がある、小さな駐車場のような場所なのですが。

ティモフスコエからアレクサンドロフスク・サハリンスキーへのバス(写真)ティモフスコエからアレクサンドロフスク・サハリンスキーへのバス

ユジノサハリンスクとアレクサンドロフスク・サハリンスキーとの間ですが、移動距離は550㎞程度です。ちょっと調べると、稚内から特急列車に乗って、札幌で乗り換えて東室蘭まで行くと525㎞位だということです。ユジノサハリンスクとアレクサンドロフスク・サハリンスキーとの間は、「稚内・室蘭」のような感じの距離です。

樺太、サハリンに関して、「日露戦争後の1905年から、北緯50度線の南側が日本領」という経過は知られていますが、その前の様子等は余り知られていないかもしれません。

後に南樺太という具合に呼び習わされる各地には、かなり古くから日本の人達も足跡を残していますし、1808年から1809年の間宮林蔵の探検が知られているように、色々な人達が様々な記録も残しています。

ロシアの人達も19世紀半ばにはサハリンで積極的に活動をするようになります。とりわけよく知られているのが、1853年に現在のコルサコフ市の辺りに拠点を築き、探査隊を動かして各地の地図を作りながら調査活動を行ったネヴェリスコイが率いた集団の活動です。

1854年に当時の幕府とロシア帝国が条約を締結して国交が開かれますが、樺太に関しては両国で各々に足跡を記していることから領有権は明確な決着を見出せない状態になっていました。ロシア側は「サハリンはロシア領である」と強く主張したそうですが、話を聴いていた幕府の役人は「例えば、ここに居る若い幕臣の父親が樺太に行って、詳しい記録を残している。相当以前から日本の人達の活動が認められる場所だ」とロシア側の主張を認めなかったのだといいます。結局、サハリンに関しては「両国の雑居」という曖昧な状況でした。

これに結論が出るのは1875年です。北海道では、戊辰戦争の最後に函館の五稜郭で政府側と戦った幕臣達の指導者であったことが知られる榎本武揚が、明治時代に入ってから外交官になっているのですが、彼がロシアのサンクトペテルブルグを訪ねてロシア政府と交渉し、両国間で<樺太・千島交換条約>を締結しています。これによって日本は千島列島を領有し、ロシアはサハリンを領有ということが明確になりました。

これを受け、ロシア側ではサハリンを本格的に利用して行こうとしました。そのサハリンでの拠点ということになったのが、アレクサンドロフスク・サハリンスキーなのです。

アレクサンドロフスク・サハリンスキーは遠浅な海岸を有していて、大陸のニコラエフスク・ナ・アムーレの対岸に相当します。人やモノはニコラエフスク・ナ・アムーレから少し大きな船で出ます。そしてアレクサンドロフスク・サハリンスキーの海岸周辺で小舟に移って、設けられていた桟橋に接岸してサハリン上陸です。

ついでながら、現在でもアレクサンドロフスク・サハリンスキーの港は遠浅な状態のままで、大型船の発着が出来る施設と思しきものは見受けられません。

1875年以降の時期、アレクサンドロフスク・サハリンスキーは、当時の帝政ロシアの統治の下で、中心的な役割を担う街になって行きます。

それ以前からアレクサンドロフスク・サハリンスキーの辺りは兵士が駐留するような場所であったようですが、1881年にアレクサンドロフスク・サハリンスキーは街としての歩みを公式に始めています。

帝政ロシアの下、1905年に南半分が日本に割譲され、1906年に制度が廃止される頃までサハリンは“流刑地”でした。

“流刑”というのは「流す」という刑罰で、主に政治犯や犯罪常習者などに関して、中央の大きな街から遠隔地に強制的に移してしまい、一定期間は監視下で懲役のように何かの作業に従事する等し、一定期間が過ぎるとある程度自由に当該の地域で暮らすようになるというものでした。またサハリンは新たに拓かれている土地ということで、「新しい土地に機会を求めよう」と移り住む事例もあったようです。

現在のサハリンの色々な街は、この“流刑地”であったような時代や、その少し前に村が起こったこと等を捉えて「街の起こり」と位置付けている例が多いと思います。

稚内市との交流がある街では、例えばコルサコフ市は1853年のネヴェリスコイによる拠点建設を、ネベリスク市はネヴェリスコイの下にあったルダノフスキーが現在の市域に到達したとされる1854年を各々の建都と位置付けています。ユジノサハリンスク市に関しては、“流刑地”時代でもある1882年にウラジミロフカという村が起こったことを建都と位置付けています。

この流刑地時代の様子に関して、一定程度広く伝える上で大きな活躍を見せているのが、作家のチェーホフです。チェーホフは大変に高名な作家で、「実際に足跡を残している」ということで、サハリンでは殊更に敬愛されているような気がします。

作家のチェーホフと言えば、『かもめ』、『ワーニャ伯父さん』、『三人姉妹』、『桜の園』というような劇の脚本を書いた作家として知られていますが、若い頃はむしろ短篇、中篇の小説の書き手でした。チェーホフが30歳の頃、1890年にサハリンを訪ねていて、医学を学んだ経過もあるという彼の「科学的な観察眼」というモノが活かされるような型で、詳細な現地情報のレポートが綴られました。このレポートが1895年に出版された『サハリン島』という本になっています。こういうモノが残っているおかげで、色々な事が伝わっているのです。

こうしたチェーホフが書き残したモノにあるようなこと等は、サハリンの現地でも色々な型で紹介されています。ユジノサハリンスクでもそういう関連の展示がある博物館、資料館があるのですが、アレクサンドロフスク・サハリンスキーにも、なかなかに見応えのある資料館があります。資料館に関しては、3つの施設があって、それぞれに面白い展示が見受けられます。

資料館にあった古式で再現した道標(写真)資料館にあった古式で再現した道標

20世紀のアレクサンドロフスク・サハリンスキーに関してです。

1905年の日露戦争終結の直前、当時の日本軍はサハリンに上陸し、全土を占領しています。そして<ポーツマス条約>の締結を受けて占領が終了しています。

それから、ロシア革命の少し後に<シベリア出兵>があります。日本では、先程も名前が出たニコラエフスク・ナ・アムーレが舞台になった、当時在留していた日本人に大きな犠牲が出てしまった事件に関する「補償占領」として北部サハリンに軍を進めており、1920年から25年までアレクサンドロフスク・サハリンスキーを占領していた経過があります。資料館や広場のプレートで、そうした史実も伝えられています。

その1920年代までの動きの後、アレクサンドロフスク・サハリンスキーは「ソ連のサハリン」の中心であり続けました。そして1946年にサハリン全土がソ連化された中、行政機関や文化施設等は豊原、現在のユジノサハリンスクに移って行きました。

かつては「地域の中心」というような、少し大きな存在感を示していながら、事情が変わり、時代が移ろい、「古くからの歴史を誇る小さな街」という雰囲気になった場所というのは、国や地域を問わず、色々な所で見受けられると思います。アレクサンドロフスク・サハリンスキーは、サハリンにあってそういう存在の街です。

チェーホフも立ち寄ったという建物を修復した資料館(写真)チェーホフも立ち寄ったという建物を修復した資料館

チェーホフの像アレクサンドロフスク・サハリンスキーの“ご本人”も行き交っていたという地区にたたずむチェーホフの像

現在、アレクサンドロフスク・サハリンスキー地区の人口は1万人を切っているということです。やや寂しい感じで、旅行者が誰でも快適に過ごせるという程でもないのかもしれませんが、興味尽きない資料が多くある資料館を擁していて、周辺の景勝地もなかなかに素晴らしい場所です。何よりも、「有名な作家のチェーホフも歩き回っていたに違いない」という場所にたたずんでみるというのが興味深いです。実際、「彼が立ち寄っていた場所」という建物が修復されたモノが、3つある資料館の1つに利用されているのです。

地味な場所かもしれませんが、4月以降に尋ねたサハリンの何箇所かでは、最も興味深かった場所がアレクサンドロフスク・サハリンスキーです。

古くからの灯台で知られるジョンキェル岬(写真)古くからの灯台で知られるジョンキェル岬を鳥瞰

サハリンを代表する景勝の一つとも言われる<三兄弟>の岩(写真)サハリンを代表する景勝の一つとも言われる<三兄弟>の岩

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