ここからメインメニュー

メインメニューここまで

サイト内共通メニューここまで

ここから本文です。

チェーホフによる『サハリン島』の事績を伝えるモニュメント(2017.04.18)

ユジノサハリンスクは、4月17日に空港に入った時点で「明日以降は雪が交じる」という情報も飛び交って、何か肌寒い感じでした。結局、日中は単に肌寒い曇天だったものの、夕方近くになって雨が少し強く降り、やがて雪が交じり始め、何やら強風と相まって「冬の始まりな頃」のような感じになりました。

「雪が交じる」ようになるずうっと以前の朝の時間帯、滞在先の宿<パシフィックプラザ>から、<稚内市サハリン事務所>がある辺りまでゆったり歩いてみました。

ミール通とコムニスチーチェスキー通とが交差するような辺りは、<A.P.チェーホフ『サハリン島』文学記念館>(チェーホフ記念館)や<A.P.チェーホフ記念サハリン国際劇場センター>(チェーホフ劇場)があり、辺りが都市公園のように整備されています。大きな通が交差する辺りを「斜めに横切る」感じの「ちょっとだけ近道…」のようにも思える歩きやすい場所で、ここを通ってみました。
 
チェーホフ記念館前のモニュメントチェーホフ記念館の目の前にモニュメントがありました。「こんなモノ?あったか?」と思ったのですが、いつの間にか出来ていました。







 
 
 
みたとおり“本”をイメージしたモニュメントです。左側に『サハリン島』とあります。モニュメントの形状は「本を開いた様子」ですが、『サハリン島』とある左側の頁は、ロシアで見掛ける本の“表紙”風の体裁になっています。

チェーホフは1860年生まれで1904年に他界しています。日本史で言えば、「桜田門外の変」の年に生まれ、「日露戦争」開戦の年に逝去したことになります。この彼が30歳であった1890年、彼はサハリンを訪ねていました。

1890年にサハリンへやって来たチェーホフは約3ヶ月間滞在し、その様子を徹底的に調査しました。それに依拠するルポルタージュ、ノンフィクションという感の作品を纏め、1895年に『サハリン島』として発表し、なかなかに話題になった経過がありました。

チェーホフは劇作家として、世界的に高名な文学者となって行く訳ですが、その世界的に高名な「ロシアを代表する作家の一人」でもある彼が「実際に訪ねている」という経過から、サハリンではチェーホフは殊更に敬愛されている感でもあります。

チェーホフ記念館前のモニュメント右頁右側の頁にはチェーホフ御本人の肖像画が刻まれています。「著名な劇作家」としてよく出て来る晩年近くの肖像ではなく、サハリンを訪ねて『サハリン島』に取組んでいた30歳代をイメージした画になっています。

















 
肖像画の横には、サハリンを評したチェーホフの言から引用された文が刻まれているようです。

拙訳ですが、ここに刻まれているのは「地方は未だ若い…人々の仕事と過去における献身は大なるものがあったが、それでもこれは未だ始まりに過ぎず、未来にあっては少なからぬよきもの、そして興味深い役目があるはずだ…」という程の意味です。

チェーホフが足跡を記した頃のサハリンは「流刑の地」で、“開拓”の途上のような感も漂う地域だったはずです。チェーホフは、そこに「一定の大きな達成」をみて、同時に「大きな可能性」をもみている訳です。

あるいはサハリンは、この時のチェーホフの見方を遥かに超える“可能性”を見出して「未来」へ向かおうとしているのかもしれません。「未だ始まりに過ぎない」(это еще только начало)(エタ イェショ トリカ ナチャーラ)という表現がチェーホフの文にありますが、サハリンはいつでも「これから!」と前向きな地域であるように思えます。

お問い合わせ先

企画総務部交流推進課
稚内市中央3丁目13番15号
交流推進グループ 0162-23-6486(直通)

メールでのお問い合わせはこちら

本文ここまで

ここからサブメニュー

サブメニューここまで

ここからフッターメニュー