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サハリン友好都市青少年交流事業 報告会・講演会 (2014年11月15日)

会場の様子今年8月、市内高校生4名のサハリン派遣(8月4~7日)と、先方でホームステイをした家庭の生徒の受入(8月14~18日)という型で「サハリン友好都市青少年交流事業」を催したところですが、11月15日、稚内市立図書館の多目的ホールを会場に報告会を催しました。約50名の皆さんが、積雪も始まった悪天候の中で集まって下さいました。

稚内市内2高校から男女各1名で、計4名の生徒がこの「サハリン友好都市青少年交流事業」に参加しましたが、各々が自分の言葉で「自身を成長させる旅」となったサハリン訪問について、また異なる背景を持っているサハリンの同世代の仲間を迎えた思い出について話しました。今年はネベリスクを訪ね、ネベリスクの生徒達を迎えています。

4人とも「外国への関心」から、今回の「サハリン友好都市青少年交流事業」参加者募集に応じました。参加が決まって、とりあえず張り切っていたものの、出発直前に至っては多少緊張もしていたようです。

しかし、ロシア語の看板・標識や“右側通行”に一寸驚きながらサハリンの地を踏み、実際にネベリスクを訪ねてみれば、サハリン側で交流に参加された生徒や御家族の皆さんと打ち解けることも出来て、沢山の思い出を胸に帰国したようです。訪ねた御家庭では、初対面でありながら、温かく歓迎して頂いたことが各々に非常に嬉しかったようです。中には、お祖父さん、お祖母さんに至るまで、十数人の大家族が勢揃いした御家庭もあったようです。

訪ねてみたサハリンでは、それぞれに街並みがカラフルで、アートやモニュメントが目立つ様子に、彼の地の“センス”のようなものを感じたようです。そして「これは善いかもしれない」ということに気付いた場面も在ったようです。他方で、日頃馴染んでいる様々なモノと勝手が違う様子に触れてみて、「当り前に享受している便利さへの感謝」というようなことを思ったと話していた方も在りました。

ネベリスクの皆さんを迎えた場面では、生け花、陶芸、ソーセージ作り等に挑戦しましたが、これらは稚内側の皆さんも余りやったことがなかったそうで、一緒に取り組んで楽しかったようです。

他方、稚内側の皆さんで相談し、ネベリスク側の皆さんを伴って温泉に出掛けてみた際、ネベリスク側の皆さんが不慣れで、結局一緒に温泉に入らなかったという出来事が在ったそうです。

こうした“文化の差”は在るものの、互いにロシア語や日本語に通じているという程でもないにせよ、互いに習っている共通の外国語である英語やジェスチャー等で意思疎通をし、互いに「判り合う」ことが出来たようです。最初はとりあえず黙っていた8人が、次第に笑顔で向き合うようになり、催しが終わっても互いに連絡を取るようになっています。

こんなお話しを伺った「報告会」に加え、今回は「講演会」を催しました。

講演する宮西豊さん今回、稚内にとっては「手近な外国」ということになるサハリンでの交流事業に参加された高校生の皆さんの「報告会」を催すにあたり、サハリンで活躍されている方、貴重な経験をされている方の御話しを、参加された高校生の皆さんや同じ学校で学ぶ皆さんに、或いは若い皆さんの交流に関心を寄せて下さって御来場頂く皆さんに聴いて頂きたいと「講演会」を計画しました。

計画に関して、講師をお願いした宮西豊さんに御相談したところ快諾頂き、折しも日本国内での御用で帰国されている期間でもあることから、御多用な中、また天候が崩れた中で飛行機を列車に切り替えて稚内へ駆け付けてくださいました。

札幌御出身の宮西さんは、大学卒業後、北海道放送勤務を経て、飲食店の運営や御自身の作曲活動のマネジメントを行う会社を設立して活動されていました。1991年、ソ連時代の最後の頃に、サハリンで日ロ合弁としてスタートしたホテルと業務提携を行い、ホテルの副社長に就任されたことから、サハリンでの飲食店経営に携わるようになりました。1990年代以降のサハリンは、正しく「大きく動く時代」であり、様々な経過が在りましたが、2003年に現在も続けていらっしゃる日本料理店<ふる里>を開店しています。宮西さんはサハリンでの社会貢献活動にも積極的で、その活動がサハリンで大変に高く評価されており、2008年にはユジノサハリンスク市の名誉市民となっています。

そんな宮西さんは「日本人の心 ロシア人の心」と題して講演をして下さいました。

宮西さんが「全く初めてロシアを訪ねた」のは1976年頃のことで、「余り訪ねた人が居ない」ということで、誘われたソ連旅行に参加したことでした。当時はハバロフスク地方の日本人墓地を訪ねましたが、「雑草が多いかもしれない」と考えながら現場を訪ねてみればそうしたものは殆どなく、地元の人達のグループが草むしりをしている様子まで目に留まりました。“日本人墓地”と言えば、「旧交戦国の人達=かつての敵」の墓地でもあり、「何故、草むしりのような手入れをする地元の人が?」と思って尋ねてみたそうです。そうすると「未だ往来が盛んではないものの、何れ関係者が頻繁に来るような日も来るであろう。それまでは地元有志で守るべきだ」という話しを聴き「心が大きい」と感じ入ったそうです。

更に、1980年頃に初めてサハリンを訪ねた際、現在とは違って古びた感じに見える建物が並んで、信号機が設置された道路さえ余り見掛けないような暗い感じの中、「オープンで明るい感じ」の地元の人達に迎えられて驚いたそうです。更に「喜ばれる」と聞いて菓子類を持ち込み、訪問先で出会った子ども達にそうしたものを配ると、子ども達がお返しに自分で着けていたバッジをくれたということがあり、「心が大きい」というような在り方に感じ入ったそうです。

こうして関心を寄せていたロシアとの縁が在って、サハリンで仕事を始めたのは「ソ連時代の最後の頃」で、宮西さん御自身は「人生の後半」に差し掛かった55歳の頃だったと言います。現在まで25年間程度、サハリンでの仕事を続けて来られました。

宮西さん御自身、仕事の上では「(ロシア語が得意な訳でもなく)“言い訳”が巧く出来るでもない」と「“仕事ぶり”で認めてもらうしかない」と懸命に仕事をされたそうです。そうした中で様々な経過が在り「裏切られた」という相手もロシア人であった他方で、「助けられた」という相手もロシア人であったという経験を積み重ねられました。そして、社会貢献活動にも積極的になって行ったようです。

社会貢献活動の一環で、宮西さんは「桜は咲く。沖縄から、稚内経由でサハリンまで」と桜の植樹に取り組んでいます。最近はモスクワでも桜の植樹をしたそうです。

宮西さんは、今回の報告会を行った高校生等の若者に向けて、「身近なサハリンの良さをもっと見て頂きたい」と繰り返していました。そして“大きさ”が感じられるロシアの皆さんの“心”に触れ、彼らが持つ「日本との違い」を学ぶことの大切さ、それを活かしていくことの大切さを強調していました。

またサハリンやロシアの仕事に関して、余りにも短い期間で見切りをつける様なことをせず、或る程度長期的に取組む必要性が在ると見受けられることや、そういう仕事に取り組もうとする若者を育む大切さにも言及されていました。

講演後の質疑応答では、高校生と宮西さんのやり取りも在りました。高校生達は、譬え言葉を知らなくても、サハリンの生徒達と互いに友情を育めたことを喜んでいる他方で、“コミュニケーション”を学ぶことに強い関心を抱くようになった様子でした。宮西さんからは「親しくなりたい人達とは、譬え言葉が巧くなくても、誰にでも共通な“家族”の話題等で話してみるのが善いと思う」というアドバイスも在りました。

「サハリン友好都市青少年交流事業」は、社会への関心が高まり、感じたことや学んだことを伝えて行く力も備わっているであろうと高校生を対象として取り組むようになって3年目です。今回の「報告会」、「講演会」では、参加した皆さんが各々に今回の「一寸した冒険」を“糧”として頂けたことが強く感じられるものでした。今後も、可能な限り、こうした取組を続けてみたいものです。

お問い合わせ先

企画総務部交流推進課
稚内市中央3丁目13番15号
交流推進グループ 0162-23-6486(直通)

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