1805 年にノシャップ岬(みさき)にロシア人が上陸するという事件(じけん)があり、幕府(ばくふ)は樺太(からふと。注 1 )を調べることに力を入れました。それまでも調べていたのですが、知られていないことも多かったため、 1808 年、幕府は間宮林蔵(まみやりんぞう)と松田伝十郎(まつだでんじゅうろう)の二人に樺太へ行くように伝えました。かくして 1808 年 4 月 13 日に林蔵は伊能忠敬(いのうただたか)からもらった正しい地図を作るための羅針盤(らしんばん。注 2 )という道具を持って、伝十郎とともに宗谷(そうや)から出発しました。樺太の一番南から二手にわかれて、林蔵は樺太を東から、伝十郎は西から北上しました。
6 月 22 日に再び合流した二人はラッカという場所まで行ったところで、これ以上先に進むのはむずかしいとしてラッカより北には行きませんでした。このときに樺太は島じゃないか、と思っていたそうです。
しょうがなく宗谷に帰ってきた林蔵は一月もたたないうちに 7 月 13 日に幕府より「樺太の東から行って、一番北を調べなさい」と言われ、今度は一人でアイヌ船にのり宗谷を出発しました。
しかし林蔵は幕府に言われたこととは反対に、伝十郎と同じく西から北上、きびしい寒さにたえ、次の年の 5 月にヨーロッパ人がまだ調べていない場所を通ることができました。そして樺太の一番北に近いナニオーという場所に着いて、やっと樺太が島であると初めて分ったのです。
林蔵はその後も大陸へ渡(わた)り、ロシアのことや現在(げんざい)の中国のことを調べました。こうして一年半も樺太を調べた後、さらに一年間かかって幕府へ調べた結果を伝えるために樺太の地図と「北夷分界余話(ほくいぶんかいよわ)」と「東韃紀行(とうだつきこう)」という二つの本を書いたのでした。





