昔日本領(にほんりょう)であった南樺太(からふと。注 1 )の真岡町(まおかちょう。注 2 )は昭和 16 年に太平洋戦争(注 3 )が始まりましたが、ソ連領の北樺太とは日ソ中立条約(ちゅうりつじょうやく。注 4 )を結んでいたため国境(こっきょう)付近での争(あらそ)いは起きませんでした。しかし昭和 20 年にアメリカとイギリスとソ連の首脳(しゅのう)によるヤルタ秘密協定(ひみつきょうてい。注 5 )が結ばれたことにより、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破(やぶ)って日本との戦争を始めてしまいました。
当時、真岡郵便局(ゆうびんきょく)にいた電話交換業務(こうかんぎょうむ。注 6 )の交換手はすべて女性(じょせい)であり、戦争中ということで国防(こくぼう)用または緊急連絡(きんきゅうれんらく)用として活躍(かつやく)していました。しかしソ連が近づいてくることもあり「仕事を止めてもいいから、交換手は引きあげるように」と命令しましたが、交換手たちは自分たちの仕事が重要(じゅうよう)であることを知っていたため引きあげませんでした。
そしてついに真岡までソ連軍がやってくると激(はげ)しい戦いが始まりました。ソ連軍が来る 30 分ほど前から交換手たちは緊急連絡を行うために郵便局にいましたが、交換部屋にも銃弾(じゅうだん)がとんでくるほど危(あぶ)ないものでしたが、にげる町の人のために最後まで仕事をし続けたのです。
ソ連軍が戦いを始めてから 30 分ほどたった時、もうにげることができないと思った交換手たちは毒(どく)を飲み、なくなるまで仕事を続けたのです。この交換手たちのことは後で小説や映画(えいが)にもなるほどのものでした。
昭和 38 年にはわっかない公園内に彼女(かのじょ)たちの霊(れい)をなぐさめるため「九人の乙女の碑(ひ)」が建てられ、そこには最後の言葉である「皆(みな)さんこれが最後です。さようなら、さようなら」という言葉が書かれています。


本当の名前を「樺太島民慰霊碑(